『麒麟がくる』第27回「宗久の約束」で最も驚いたこと
足利義昭の上洛の謎は、
「足利義栄という将軍がいたのに、なぜ上洛したのか?」
ですが、『麒麟がくる』第27回「宗久の約束」では、今井宗久が、
「実は、わたしは、此度は織田様が有利と見ております。織田様は、次の将軍・足利義昭という大きな旗印をお持ちになり、三好様が担がれた旗印は、摂津で倒れてしまわれた」
と言っています。『麒麟がくる』第27回「宗久の約束」で最も驚いたのは、足利義栄がナレ死ならぬ、台詞死だったことです。足利義栄が死んだのなら、足利義昭が上洛して将軍になるしかないですね。
【足利義栄の死に関する諸説】
※『平嶋記』
一、義親(義冬一男也)、天文七戊戌年に阿波国平嶋にて生まる。永禄九丙寅年十月廿日に撫養にて卒す。年二拾九歳也。同平島の内に葬る。法名玉山。
死因
・病死(腫物:『公卿補任』『足利家官位記』 / 疔疽:『陰徳太平記』)
※疔疽(ちょうそ)は腫物、化膿性疾患、毛嚢炎(毛包炎)。
・毒殺説(足利義昭将軍擁立のための策)
・生存説(普門寺で死んだと偽り、阿波国へ帰国)
死去日
・9月12日(『明智軍記』)
・9月13日(『陰徳太平記』)
・9月日(『公卿補任』『足利家官位記』『高野山過去帳』)
・10月1日(『重編応仁記』)
・10月8日
・10月20日(『平島記』『阿州将裔記』)
・10月22日
亡くなった場所
・摂津国富田の普門寺(現在の大阪府高槻市富田町。『重編応仁記』)
・阿波国撫養(現在の徳島県鳴門市撫養(むや)町。『平島記』)
・淡路国
享年
・25(『明智軍記』)
・29(『平島記』)
・31
・33
https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/1001/0150?m=all&s=0150
以上、ドラマでは「死んだ」(実際には「倒れてしまわれた」と微妙な表現)とされましたが、実際の足利義栄の死去日は、足利義昭が征夷大将軍に就任した10月18日より前(足利義栄は解任され、足利義昭が就任)なのか、後(足利義栄の死去より、将軍職が空位になっていたので、足利義昭が就任)なのかは不明です。
ちなみに、『明智軍記』では、
「去る程に、京方には、義昭公、織田信長を憑(たの)んで責め上り給ふ由、風聞頻りなれば、『佐々木に力を合はせ、防戦有るべし』と詮議しける処に、新将軍左馬頭義栄卿、八月中旬より腫物を煩ひ給ひけるが、九月十二日、二十五歳にて、終に卒去し給ひけり。三好を始め、御味方申しける輩、気を失ひ、力を落として、『いかがせん』とぞ惘(あき)れける。」
(【大意】三好方に「足利義昭が織田信長の助力で上京する」という噂が流れ、三好方が「佐々木六角承禎に味方して、上洛を食い止めよう」と考えている時、8月中旬から腫れ物を患っていた新将軍・足利義栄が9月12日に25歳で亡くなったので、三好方は、「どうしようか」と気落ちした。)
となっています。このように、足利義栄の死について、『明智軍記』には、「9月12日」「25歳」というオリジナル説が載せられています。この他にも『明智軍記』オリジナル説は多々あります。『明智軍記』の作者は何を見て『明智軍記』を書いたのか、出典を知りたいものです。
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