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『信長公記』(巻4)に見る元亀2年(1571年)後半の出来事

太田牛一『信長公記』の元亀2年(1571年)後半の記事は、

1.比叡山延暦寺の焼き討ち
2.高宮一族の成敗
3.内裏(御所の修理)完了
4.織田信長の京都支配
5.関所の廃止

になります。

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1.比叡山延暦寺の焼き討ち

九月十一日、信長公、山岡玉林所に御陣懸けらる。
九月十二日、叡山へ御取り懸け。
子細は、去年、野田、福島御取り詰め候て、既に落城に及ぶの刻(きざみ)、越前の朝倉、浅井備前、坂本口へ相働き候。
「京都へ乱入候ては、其の曲あるべからず」
の由候て、野田、福島御引払ひなされ、則ち、逢坂を越え、越前衆に懸け向ふ。つぼ笠山へ追ひ上げ、干殺なさるべき御存分、山門の衆徒召し出され、今度、信長公へ対して御忠節仕るに付きては、御分国中にこれある山門領、元の如く還附せらるべきの旨、金打(きんちょう)なされ、其の上、御朱印をなし遣はされ、「併しながら、出家の道理にて、一途の贔屓なりがたきに於いては、見除仕り候へ」と、事を分ちて仰せ聞かせらる。「若し、此の両条違背に付きては、根本中堂、三王廿一社を初めとして、悉く焼き払はるべき」趣、御言葉候ひき。
 時刻到来の砌歟、山門、山下の僧衆、王城の鎮守たりと雖も、行躰行法、出家の作法にも拘らず、天下の嘲笑(あざけり)をも恥ず、天道の恐をも顧みず、婬乱、魚鳥を服用せしめ、金銀賄(まかない)に耽りて、浅井、朝倉に贔屓せしめ、恣(ほしいまま)に相働くの衆、世に随ひ、時習に随ひ、まず、御遠慮を加へられ、御無事に属せられ、御無念ながら、御馬を納められ候ひき。御憤(いきどおり)を参ぜらるべき為に候。
 九月十二日、叡山を取り詰め、根本中堂、三王廿一社を初め奉り、霊仏、霊社、僧坊、経巻一宇も残さず、一時に雲霞の如く焼き払ひ、灰燼の地となすこそ哀れなれ。
 山下の老若男女、右往左往に廃忘(はいもう)致し、取る物も取り敢へず、悉く、かちはだしにて、八王子山へ逃げ上り、社内へ逃げ籠る。
 諸卒四方より閧音(ときのこえ)を上げて攻め上る。
 僧俗、児童、智者、上人、一々頸をきり、信長公の御目に懸け、「是れは山頭に於いて、其の隠れなき高僧、貴僧、有智の僧」と申し、其の外、美女、小童、其の員(かず)をも知らず召し捕へ召し列らね、御前へ参り、悪僧の儀は是非にも及ばず、「是れは御扶けなされ候へ」と、声々に申し上げ候と雖も、中々御許容なく、一々に頸を打ち落され、目も当てられぬ有様なり。数千の屍(しかばね)算を乱し、哀れなる仕合せなり。
 年来の御胸朦を散ぜられ訖(おわ)んぬ。さて、志賀郡、明智十兵衛に下され、坂本に在地候ひしなり。
 九月廿日、信長公、濃州岐阜に至りて御帰陣。

 元亀2年(1571年)9月11日、織田信長は、園城寺(三井寺)の僧・山岡景猶(かげなお)の城(園城寺の山岡景猶屋敷)に陣を据え、翌9月12日に「比叡山の焼き討ち」を行った。ことの詳細は、次のようであった。
 去年、織田軍が摂津国で三好軍の野田城、福島城を攻囲して、落城寸前にまで追い詰めた時(「野田、福島の戦い」)、越前国の朝倉義景、北近江の浅井長政が琵琶湖の西岸を南下して坂本方面に攻め寄せた。
「京へ乱入されては一大事である」
と織田信長は、野田、福島の陣を引き払い、逢坂越えで朝倉&浅井連合軍に立ち向かった。織田信長は、「朝倉&浅井連合軍を壺笠山に追い上げて、干し殺し(兵粮責め)にしよう」とした。それで織田信長は、山門(比叡山延暦寺)の衆徒を呼び、
「織田軍に味方すれば(織田信長の)領国中の延暦寺領を返すが、いかに」
と、金打(刀をカチンと鳴らす誓い)をし、朱印状を渡して堅く誓った。
「ただ、出家の道理(仏教の教え)により、一方にのみ贔屓することが出来ない場合には、中立を保つように」
と理論的に説得した。さらに「このどちらでもなく(織田軍に加担することも、中立を保つこともなく)、朝倉&浅井連合軍に加担した場合は、根本中堂や山王21社等を悉く焼き払う」と加えた。
 その時が到来したのであろうか。この頃、比叡山の山上、山下の僧衆たちは、王城鎮守の衆であるのに、日常世界でも、修行においても、出家の道をはずれて、天下の笑いものになっているというのを恥じず、天道を恐れず、色欲に耽り、魚や鳥を食べ、金銀に目をくらませて朝倉&浅井連合軍に加担し、やりたい放題であった。とはいえ、その時(1年前の「志賀の陣」の時)、織田信長は、世論や時勢に従い、遠慮して見逃し、兵を収めた。
 そして、9月12日、織田信長公は、比叡山を攻撃し、根本中堂、山王21社をはじめ、霊仏(寺)、霊社(神社)、僧坊、経蔵を一宇も残すところなく、雲霞が立ち昇るように焼き払い、灰燼の地と化したのは哀れである。
 一方、山下では老若男女が右往左往して逃げまどい、取るものも取り敢えず、裸足で八王寺山に逃げ登り、日吉大社奥宮の社殿に逃げ込んだ。
 織田軍は、四方より鬨の声をあげながら攻め上った。
 織田勢は僧俗(出家している人も、していない人も)、児童(子供)、智者(学僧)、上人(高僧)の区別なく首を刎ねて織田信長に見せた。(身分の高い者の首ほど多くの褒章がもらえると思ったのか)
「この首は、比叡山を代表する高僧の首である」
「この首は、比叡山を代表する貴僧の首である」
と皆、口々に(でまかせを)言い、美女や小童(子供)も数多く捕らえ、織田信長の前に引き出された。悪僧は当然、「助けて下さい」と哀願した者も、全て首を刎ねられ、数千の死体がゴロゴロと散らばるという目も当てられぬ有様であった。
 こうして昨年からの遺恨は解消された。
 さて、近江国志賀郡(比叡山周辺)は、明智光秀に与えられ、明智光秀は坂本に住み、居城・坂本城を築くことになる。
 9月20日、織田信長は、美濃国岐阜城に帰陣した。

※「比叡山焼き討ち」をしたのは、織田信長で3人目である。
「三王廿一社」:山王二十一社。天台宗の鎮守神である山王権現(「日吉権現」「日吉山王権現」とも。現在の日吉大社。豊臣秀吉の幼名「日吉丸」の由来となった比叡山の神)のことで、「上七社」「中七社」「下七社」で「山王二十一社」である。なお、「山王七社」といえば「上七社」を指す。
織田信長による「比叡山焼き討ち」の実態:詳細は別記事で。
・織田信長による「比叡山焼き討ち」
https://note.com/senmi/n/nebca18244661

2.高宮一族の成敗

 九月二十一日、河尻与兵衛、丹羽五郎左衛門、両人に仰せ付けられ、高宮右京亮一類、歴々、佐和山へ召し寄せ、生害なり。切って出で、相働き候へども、別条なく成敗なり。
 子細は、先年、野田、福島御陣の時、大坂へ心を合せ、一揆蜂起の調略を致し、御陣半(なかば)に、御取出天満ケ森河口足がかりより、大坂(石山本願寺)へ走り入り候ひしなり。

 翌9月21日、織田信長は、河尻秀隆と丹羽長秀の2人に命じ、高宮右京亮(宗存?)とその一族、お歴々(重臣)を佐和山城に呼んで殺させた。抵抗されたが、造作もなく成敗した。
 今回の成敗の詳細(理由)は、去年の「野田、福島の戦い」の時、大坂(大坂(石山)本願寺)方に内通して、一揆を結ばせ、戦いの途中で、天満ヶ森の川口砦(大阪府大阪市西区川口)を脱走して、大坂(大坂本願寺)に駆け入った裏切り行為による成敗である。

高宮氏:高宮氏は近江国犬上郡高宮出身の豪族で、浅井家家臣であったが、元亀元年(1570年)6月28日の「姉川の戦い」直後の「佐和山城攻め」の前後で織田信長の家臣となっていたという。なお、高宮一族の生き残りは浅井方に戻った。

3.内裏(御所)の修理完了

 抑(そもそ)も禁中、既に御廃壊、正体なきに付、「御修理の儀、御冥加の為」をおぼしめし、先年、日乗上人、村井民部丞を御奉行として、仰せ付けられ、三ヶ年に出来。紫宸殿、清涼殿、内侍所、昭陽舎、其の外、御局々、残る所なく造らしめ畢(おわんぬ)。

 すでに廃墟のようになっていた内裏を修理することは、「戦国大名冥利につきる」として、織田信長は、先年(永禄12年4月19日)、日乗上人と村井貞勝を奉行に任じて内裏の修復工事を命じており(翌永禄13年3月21日に一応完了(屋根、壁、門の修復完了)していたが)、3年経った元亀2年、完全に終了した。紫宸殿、清涼殿、内侍所、昭陽舎、その他、各局が余すところなく造りあげられた。

・紫宸殿(ししんでん/ししいでん):内裏の正殿。儀式を行う建物。
・清涼殿(せいりょうでん):天皇の日常の居所。
・内侍所(ないしどころ):天照大神を祀る神殿。
・昭陽舎(しょうようしゃ):女御などが居住。

4.織田信長の京都支配

 其の上、御調物、末代に於いて懈怠なき様に御沙汰あるべく、信長公御案を廻らされ、京中町人に属詫(しょくたく)預け置かれ、其の利足、毎月進上候様に仰せ付けられ候。
 並に、怠転の公家方御相続、是れ又、重畳御建立。
 天下万民一同の満足これに過ぐべからず、云々。本朝に於いて御名誉、御門家の御威風、勝(あ)げて計ふべからず。

 その上(内裏修理の上)、織田信長は、「末代まで経済的に朝廷が困ることがないようにするには、どうすればよいか?」と考えを巡らし、洛中の町人に米を強制的に貸し付け、その利息分を毎月朝廷に献上させることにした。
 また、没落貴族の復興支援として、領地の復地などの対策を講じた。
 これらの政策は天下万民の喝采を浴びた。本国における名誉、織田家の威風には、他に並ぶ者がいない。

「禁裏様御賄い」:9月30日、織田信長は、「10月15日~20日の間に、領地内の田畑1反当たり1升の米を、公武御用途のために出せ」というお触れを家臣・明智光秀、島田秀満、塙長政、幕臣・松田秀雄をして寺社に回させた(『言継卿記』「阿弥陀寺文書」)。
 10月15日、織田信長は、家臣・明智光秀、島田秀満、塙長政、幕臣・松田秀雄をして京の町民に対し、「1町当たり5石の米を貸し付けるので、禁裏様御賄(まかない)のため、来年1月から毎月1斗2升5合を利息として上納せよ」と命令させた(「京都上京文書」)。
 この命令を徹底させるには、同じ大きさの枡(計量カップ)が必要で、織田信長は、枡を「京都十合枡」(略称「京枡」。奉行人の判がおされていたので「判枡」とも)に統一した。

織田信長の京都支配:元亀2年(1571年)11月1日、摂津晴門は政所執事を解任され、御供衆・伊勢貞興が政所執事になった。伊勢貞興は、代々政所執事を務めた伊勢家の宗主であるが、永禄5年(1562年)生まれの10歳であり、仕事は出来なかったと思われる。執事を補佐する政所代(執事代)・蜷川親長も京都を離れていたので、「伊勢貞興が元服するまで」という条件で、織田信長と彼の家臣が政所の業務を代行した。

5.関所の廃止

また、御分国中、諸関、諸役御免許。天下安泰、往還旅人御憐愍、御慈悲甚深にして、御冥加も御果報も世に超え、弥(いよいよ)増す御長久の基なり。併しながら、「道を学び身を立つるも、御名を後代に挙げん」と欲せらるゝがゆえなり。珍重々々。 (以上で巻4了)

 また織田家の領国内において、関銭、諸役は、全て免除された。天下安泰を図り、往還する旅人への思いやり、慈悲深く、冥利(神仏の御加護)も果報も誰にも増して、武運長久の礎となった。これは、
「道を学び、身を立て、名を後代に残そう」
と織田信長が望んだからであろう。珍しくありがたい、珍しくありがたい。

※「旅人への思いやり」というよりは、「商人が商業活動を活発化するための支援」であろう。

※巻4では、「延暦寺の焼き討ち」が描かれ、「これで織田信長は仏罰を受けて衰退していくだろう」と思いきや、「織田家は、神仏の加護が得られて発展した」と締めくくった。

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