『政秀寺古記』を読む 第14話「足利義昭感状之事」
第14話「足利義昭感状之事」
光源院殿御舎弟義昭公の先鋒とて、信長卿、江州表え出張せられ、箕作の城を一時に攻落し、其勢に江州の敵城共、悉く、聞くや否や明け退く。
一ヶ月歴(へ)ずして、義昭公、御本意遂げられ候。
信長卿、供奉申され、三好が凶徒ども盡く打果して帰洛成されけり。
此時、御感状に曰く、
今度国々凶徒等、不歴日不移時、盡令退治之條、武勇天下第一也。當家之再興不過之、彌国家之治、偏頼入之外無。尚、藤孝、準政可申也。
永禄十一年十月廿五日
御父織田弾正忠殿
右御文言、名字等之次第、規模面目の至り、前代未聞之由、京、夷中(いなか)迄も、言ひ傅ふ。信長卿を此頃、「弾正忠殿」と申しけり。
【現代語訳】
光源院殿(故・足利義輝)の弟・足利義昭(当時の名は「義秋」)上洛の先鋒(露払い)として、織田信長は、近江国へ出陣した。永禄11年(1568年)9月12日、箕作城(滋賀県東近江市五個荘山本町箕作山)を主戦場とする「観音寺城の戦い」で、箕作城を4時間(一夜)で攻め落すと、織田軍の勢いに近江国の敵城は、「箕作城が簡単に落ちた」と聞くや否や、城を明け渡して退散した。(観音寺城は無血開城し、六角氏は甲賀郡に落ち延びた。)
こうして、一ヶ月を経ずして、足利義昭は、御本意(上洛して将軍職に就くこと)を遂げられた。
織田信長が、同行して、三好衆の凶徒を悉く討ち果たしたので、足利義昭は、京都へ帰れたのである。
この時、足利義昭が織田信長に出した感謝状には、
(略)【解説】参照
と書いてあった。内容も、「御父」という呼び方も、これ以上にない武士の誉であり、「前代未聞の事である」と京都はもちろん、田舎までも言い伝えられた。織田信長を、この頃は、「弾正忠殿」と言っていた。
【解説】
足利義昭感状は他の本にも掲載されている。
・『古今消息集』
・『原本 信長記』
https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/1001/0253?m=all&s=0253
・『細川両家記』
https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/1001/0254?m=all&s=0253&n=20
『政秀寺古記』では、『原本 信長記』『細川両家記』に追加として載せられている「今度依大忠、紋桐、引両筋遣候、可受武功之力祝儀也」の1文が抜けている上に、日付が異なる。
そもそも『政秀寺古記』には、「『信長公記』には足利義昭の感状が載っていない」とあるが、『信長公記』の1巻に載っている。どうも『政秀寺古記』の作者は『信長公記』の首巻しか読んでいないと思われる。
※『信長公記』1巻「信長御感状御頂戴の事」
十月廿四日 御帰国の御暇仰せ上げらる。
廿五日に御感状。其の御文言に、
今度国々凶徒等、日を歴ず、時を移さず、悉く退治せしむるの条、武勇天下第一なり。当家の再興これに過ぐべからず。弥国家の安治、偏に憑み入るの外、他なし。尚、藤孝、惟政申すべきなり。
十月廿四日 御判
御父 織田弾正忠殿
御追加
今度大忠に依つて、紋桐、引両筋遣はし侯。武功の力を受くぺき祝儀なり。
十月廿四日 御判
御父 織田弾正忠殿
と、下しなされ、前代未聞の御面目、重畳詞に書き尽し難し。
廿六日 江州守山まで御下。
廿七日 柏原上菩提院御泊。
廿八日 濃州の内岐阜に御帰城。千秋万歳珍重々々。
【現代語訳】
永禄11年(1588年)10月24日、織田信長は、足利義昭に「帰国する(美濃国岐阜へ帰る)と告げた。
翌・10月25日に感謝状をいただいた。(昨日、書いたらしく、日付は昨日になっている。)その文面は、
今度(このたび)、国々の凶徒などを短期間で悉く退治したことは、あなたの武勇が天下第一であることを示しています。足利将軍家の再興が出来たのは、あなたのお陰です。ますます国家が安定して治まるよう、偏にあなたに頼むしかありません。尚、詳細は(この感謝状を持っていく)細川藤孝と和田惟政が説明します。
10月24日 御判
御父 織田弾正忠信長殿
追加
今度の大いなる忠節に依り、足利氏の桐紋、引両筋の使用を許可します。これは、あなたの武功に対するご祝儀(プレゼント)です。
10月24日 御判
御父 織田弾正忠信長殿
である。前代未聞の名誉であり、詞(ことば)に出来ない。
10月26日 近江国の守山城(滋賀県守山市)まで(京都から)下った。
10月27日 柏原の成菩提院(滋賀県米原市柏原)に泊った。
10月28日 美濃国の岐阜城(岐阜県岐阜市)に帰城。千秋万歳、めでたし、めでたし。