正信偈16「釈迦如来楞伽山 為衆告命南天竺龍樹大士出於世 悉能摧破有無見宣説大乗無上法 証歓喜地生安楽」

正信偈 16
 
釈迦如来楞伽山 為衆告命南天竺
龍樹大士出於世 悉能摧破有無見
宣説大乗無上法 証歓喜地生安楽
 
人は死後、どうなるのでしょうか?2世紀頃のインドでは、2つの説が信じられていました。1つは有見(うけん)。死ねば肉体は滅するが霊魂だけはいつまでも変わらずに永遠に生き続けるという説。霊魂というのは魂です。これは私たちの中に永遠に続くもの、変わらないものを認める考え方です。もう1つは無見(むけん)。死ねばすべてが無に帰して何も残らないという説。これは浄土・地獄の存在すら否定する考え方です。1900年前の話ですが、今の私たちの時代もそう変わらない考え方をしているんじゃないかと思います。
 
この時代に生まれたのが龍樹菩薩という方でした。龍樹菩薩は「有見も無見も邪見である」と、この2つの説を看破します。私たちがどう考えてみようとしてもこれだけは死んでみないことには分かりません。現代でも「生きた人間の方から死んだ人間の存在を確認できないから死んだら無になるんだ」という言説は耳にしますが、はたしてそう言いきれるでしょうか。

私たちにおいては仏法はさもすれば観念になってしまいがちです。この頃もそうだったのでしょう。観念になった仏法を実践に戻した方が龍樹菩薩です。平たく言えば、自分の身を離れて頭でこねくり回す知識・情報になっていた仏法を、自分の生活・この身に返そうとしました。生まれて生きて死んでいくこの私のためにあるのが仏法で、机上で知識や論述を繰り返して空想ゲームに励むのは本当の仏法の姿ではないと明らかにしたのです。

最後に私の先生、尼子玄章さんの『自己とは何かー清沢満之の言葉よりー』から文章を引用します。

Door is open ドア イズ オープン

満之は、生涯、ギリシアの哲人エピクテタスを愛読しました。「Door is open 死の門戸は常に開いている、余は何時にても死する事を得ると言えるは、人生のすべての煩悶について最後の解決をなせるもの也」と記しています。
我らがどれだけ厭い嫌おうと、Door is open、自己の死の門戸は、常に開いたままです。自己の真実の問いはまさにここから始まります。開いたままの自己の直下は底なしの深淵の虚無なのか。それとも、自己が落下して往く直下は無限の大慈悲なのか。自己は消滅してゆく幻影なのか、現世の罪業を脱ぎ捨てて、生まれ変わっていく生命なのか。古今東西の求道者が苦悩した根本問題はここにあります。
 こたえは一つしかありません。我を捨てて落下するままにおまかせすることです。生まれてくる時も、「うたがい心」はありませんでした。リルケの「秋」の詩には、落下のなかにも、落下を肯定する安らぎがあります。

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