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易往而無人 往き易くて人無し

『大経』下巻に「易往而無人(いおうにむにん)」とあって「往き易くて人無し(いきやすくてひとなし)」と読みます。

「易往而無人」といふは、「易往」はゆきやすしとなり、本願力に乗ずれば本願の実報土に生るること疑なければ、ゆきやすきなり。「無人」といふはひとなしといふ、人なしといふは真実信心の人はありがたきゆゑに実報土に生るる人まれなりとなり。

『尊号真像銘文』


本願力に乗じれば浄土に往くことは容易いが、浄土には人がいない。つまり、浄土には往きやすいのに浄土に往く人は稀であると説かれている。ここを取り立てて、真実信心を獲ることは大変に至難であるから真実信心の人は滅多にいないんだと語る現場をよく目にします。しかし、易往而無人を単なる客観的事実として捉えてしまっては本意を読みきれません。私も「易往而無人」の御文を初めて目にした時から漠然とそう思っていましたが、今は読み方が変わりました。

勿論、信心が無くともすべての人々が往生できるといった本覚思想は論外であります。だからといって、易往而無人の御文が自己や他人の往生を疑うものになってはいけません


これによりて『大経』(下)には、「易往而無人」とこれを説かれたり。この文のこころは、「安心をとりて弥陀を一向にたのめば、浄土へは往きやすくして人なし」といへるはこの経文のこころなり。かくのごとくこころうるうへには、昼夜朝暮にとなふるところの名号は、大悲弘誓の御恩を報じたてまつるべきばかりなり。かへすがへす仏法にこころをとどめて、とりやすき信心のおもむきを存知して、かならず今度の一大事の報土の往生をとぐべきものなり。

「御文章」第二帖七通

御文章に書かれた蓮如上人のお心を読みますと、「易往而無人と心得たからには、大悲弘誓の御恩報謝としてお念仏していくしかない。私は重ね重ね仏法をこの身に感じながら、獲やすくしてくださった御信心の趣意を承知して、必ずいのち終わるときに浄土に往生させていただく。」となりましょうか。「易往而無人」を「真実信心を獲る人が滅多にいない」という客観的事実のみであると読んでいるとこの御文章のお心は分かりません。蓮如上人は易往而無人をネガティヴには読んでいません。

「かくのごとくこころうるうへには、昼夜朝暮にとなふるところの名号は、大悲弘誓の御恩を報じたてまつるべきばかりなり」は非常に味わいの深い御文です。「となふるところの名号が御恩を報じたてまつるべき」であるというのは、易往而無人と心得たということは、易往而無人の浄土にこの私が参らせていただく本願力を感じたということであって、そうであるからこそ、御恩を報ずる称名へ繋がっていきます。決して、稀な人たちの一人になるために頑張って称名しましょうとは言っておりません。

私は易往而無人を自分事として読めたときに、往く人が稀である浄土にこの私を往かせる不思議な本願力を感じました。私が往生させていただくことは何かの縁によるものなのか、なぜなのかは私には何も分からない、ただ不思議です。社会の道理であれば易往而無人な浄土に私は往ける道理も無いが、不思議な本願力によって往かせていただける。ここによろこびを感じます。

『大経』下巻「易往而無人」の前後を読むと理解がまた深まります。

(書き下し文)

【三一】仏、弥勒菩薩ともろもろの天・人等に告げたまはく、「無量寿国の声聞・菩薩の功徳・智慧は、称説すべからず。またその国土は、微妙安楽にして清浄なることかくのごとし。なんぞつとめて善をなして、道の自然なるを念じて、上下なく洞達して辺際なきことを著さざらん。よろしくおのおのつとめて精進して、つとめてみづからこれを求むべし。かならず超絶して去つることを得て安養国に往生して、横に五悪趣を截り、悪趣自然に閉ぢ、道に昇るに窮極なからん。往き易くて人無し。その国逆違せず、自然の牽くところなり。なんぞ世事を棄てて勤行して道徳を求めざらん。極長の生を獲て、寿の楽しみ極まりあることなかるべし。しかるに世の人、薄俗にしてともに不急の事を諍ふ。(中略)田あれば田に憂へ、宅あれば宅に憂ふ。(中略)かくのごときの人、矇冥抵突して経法を信ぜず、心に遠き慮りなくして、おのおの意を快くせんと欲へり。愛欲に痴惑せられて道徳を達らず、瞋怒に迷没し財色を貪狼す。これによって道を得ず、まさに悪趣の苦に更り、生死窮まりやむことなかるべし。哀れなるかな、はなはだ傷むべし。(中略)痛みいふべからず、はなはだ哀愍すべし」と。
【三二】仏、弥勒菩薩ともろもろの天・人等に告げたまはく、「われいまなんぢに世間の事を語る。人これをもつてのゆゑに坐まりて道を得ず。まさにつらつら思ひ計りて衆悪を遠離し、その善のものを択びてつとめてこれを行ずべし。愛欲・栄華つねに保つべからず、みなまさに別離すべし。それ至心に安楽国に生れんと願ずることあるものは、智慧あきらかに達り、功徳殊勝なることを得べし。心の所欲に随ひて、経戒を虧負して、人の後にあることを得ることなかれ。もし疑の意ありて経を解らざるものは、つぶさに仏に問ひたてまつるべし。まさにためにこれを説くべし」と。
 弥勒菩薩、長跪してまうさく、「仏は威神尊重にして、説きたまふところ快く善し。仏の経語を聴きたてまつりて、心に貫きてこれを思ふに、世人まことにしかなり。仏ののたまふところのごとし。いま仏、慈愍して大道を顕示したまふに、耳目開明にして長く度脱を得。仏の所説を聞きたてまつりて歓喜せざることなし。諸天・人民・蠕動の類、みな慈恩を蒙りて憂苦を解脱す。仏語の教誡ははなはだ深くはなはだ善し。(中略)いま仏に値ひたてまつることを得、また無量寿仏の声を聞きたてまつりて、歓喜せざるものなし。心開明なることを得たり」と。
【三三】仏、弥勒菩薩に告げたまはく、「(中略)仏とあひ値うて経法を聴受し、またまた無量寿仏を聞くことを得たり。快きかな、はなはだ善し。われ、なんぢを助けて喜ばしむ。(中略)」と。弥勒、仏にまうしてまうさく、「仏の重誨を受けて専精に修学し、教のごとく奉行して、あへて疑ふことあらじ」と。

『浄土真宗聖典-註釈版 第二版-』(浄土真宗本願寺派総合研究所)

(現代語訳)

【三一】釈尊は弥勒菩薩と天人や人々などに仰せになった。「無量寿仏の国の声聞や菩薩たちの功徳や智慧がすぐれていることは、言葉に表し尽せない。またその国土が美しくて心安らぎ清らかであることも、すでに述べた通りである。それなのにどうして人々は、つとめて善い行いをし、この道が仏の願いにかなっていることを信じて、上下の別なくさとりを得、きわまりない功徳を身にそなえようとしないのだろうか。それぞれに努め励んで、すすんでこの国に生れようと願うがよい。そうすれば必ずこの世を超え離れて無量寿仏の国に往生し、ただちに輪廻を断ち切って、迷いの世界にもどることなく、この上ないさとりを開くことができる。無量寿仏の国は往生しやすいにもかかわらず、往く人がまれである。しかしその国は、間違いなく仏の願いのままにすべての人々を受け入れてくださる。人々は、なぜ世俗のことをふり捨てて、つとめてさとりの功徳を求めようとしないのか。求めたなら、限りない命を得て、いつまでもきわまりない楽しみが得られるだろう。ところが世間の人々はまことに浅はかであって、みな急がなくてもよいことを争いあっており、(中略)田がなければ田が欲しいと悩み、家がなければ家が欲しいと悩む。(中略)こういう人々は、心が愚かでありかたくなであって、仏の教えを信じず、後の世のことを考えず、各自がただ目先の快楽を追うばかりである。欲望にとらわれてさとりの道に入ろうとせず、怒りにくるい、財欲と色欲をむさぼることは、まるで飢えた狼のようである。そのためにさとりが得られず、ふたたび迷いの世界に生れて苦しみ、いつまでも生れ変り死に変りし続ける。何という哀れな痛ましいことであろうか。(中略)その痛ましさはとうてい言葉にいい表せない。実に哀れむべきことである」
【三二】続けて釈尊が弥勒菩薩と天人や人々などに仰せになる。「わたしは今、そなたたちに世間のありさまを語った。人々はこういうわけでさとりの道に入ることがないのである。そなたたちはじっくりとよく考えていろいろな悪を遠ざけ、善い行いに励むがよい。欲望に任せた生活も、またどのような栄華も、いつまでも続くものではなく、すべて失われてしまう。本当に楽しむべきものは何一つない。さいわいにも今は仏が世にいるのであるから、努め励んでさとりを求めるがよい。まごころをこめて無量寿仏の国に生れたいと願うものは、明らかな智慧とすぐれた功徳を得ることができるのである。欲にまかせて仏の戒めに背き、人に後(おく)れを取るようなことがあってはならない。もし疑問があって、わたしの教えることがよく分らないようなら、どのようなことでも尋ねるがよい。わたしはそのもののために説いて答えよう」弥勒菩薩がうやうやしくひざまずいて申しあげる。「世尊の神々しい姿は実に尊く、お説きになった教えはまことにありがたく存じます。世尊の教えを聞かせていただいて、よくよく考えてみますと、世の人々のありさまはまことに仰せの通りであります。今、世尊が哀れみの心をもってまことの道をお示しくださいましたので、わたしたちは真実を見る目を得て、この先長く迷いを離れることができました。世尊の教えをお聞きして喜ばないものはありません。天人や人々をはじめ小さな虫などに至るまで、みなそのお慈悲によって苦悩を離れることができます。世尊の教えは、実に深く実に巧みであります。(中略)今わたしたちは世尊にお会いすることができ、また無量寿仏のことを聞かせていただいて、喜ばないものはひとりもおりません。みな心が開かれて、くもりが除かれました
【三三】釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。「(中略)このたびそなたたちは仏に出会い、教えを聞き、また無量寿仏のことを聞くことができた。まことに喜ばしく、実に善いことである。わたしもそれをともに喜びたい。(中略)」そこで弥勒菩薩がお答えした。「世尊の懇切丁寧な教えをいただきましたからには、ひたすらさとりを求めて仰せの通りに修行し、決して疑うようなことはございません

『浄土真宗聖典 浄土三部経-現代語版-』(浄土真宗教学研究所)

(略したところを読みたい方は『浄土真宗聖典 浄土三部経-現代語版-』(浄土真宗教学研究所)をお求めください。)

『大経』下巻【三一】から、釈尊が素晴らしき浄土の様子を語り、易往而無人であると語り、続いて穢土を棲み処とする凡夫の様子をきわめて厳しい言葉で語ります。率直に編み出される言葉たちは凡夫の実相をこの上ないほどに赤裸々に言い尽くしています。これに応答して弥勒菩薩が凡夫の姿はまさにその通りでありますと認め、その上で、「釈尊のこの度の説法によって無量寿仏のことを聞かせていただいて喜ばないものはひとりもおりません。みな心が開かれて、くもりが除かれました」とこたえます。

続けて釈尊が、「そなたたちが私と出遇い、無量寿仏の教えを聞くことができたことがまことに喜ばしい。ともに喜びたい」と申すと、弥勒菩薩が「世尊の懇切丁寧な教えをいただきましたからには、決して疑うようなことはありません」とこたえます。


「易往而無人」だけを引っ張り出すと確かに、親鸞聖人も『尊号真像銘文』に釈しているように、「真実信心の人が稀である」と言えるでしょう。しかし、その文字面に囚われては残念なことであります。敢えて義をもって時間的に表しますと、真実信心の人が稀という客観的事実は、釈尊が語り弥勒菩薩が応答することで、私にとって既に過去のものになりました。本来浄土は易往而無人であった。しかし、釈尊が語り弥勒菩薩が聞いたことで、今では私をすくう本願力がここに届いている。この不思議をよろこぶほかありません。

易往而無人だから私の信心やあなたの信心は偽物だろうと味わうより、易往而無人なのに私たちをすくってくださる本願力のありがたさよと味わえれば素敵ですね。

易往而無人、この私をすくってくださる不思議な本願力と味わうばかりです。南無阿弥陀仏


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