正信偈22 「本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼 三蔵流支授浄教 焚焼仙経帰楽邦」
正信偈 22
本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼
三蔵流支授浄教 焚焼仙経帰楽邦
梁の天子・・・南朝梁の武帝(四六四―五四九)のこと。(中略)仏教を深く信奉した。
曇鸞という方は、南朝梁の武帝であった方がまさに菩薩として敬われた方です。生まれは476年、中国山西省です。龍樹菩薩の思想をベースに勉学、また仏法に励まれていましたが、ある時から身体を悪くします。「悟りを開くための教えを実践したいが、このままでは自分の命が先に無くなる。いったん仏法に取り組むのを辞めて健康になろう。」と不老不死の法を求めて旅に出ました。旅先で「仙経(せんぎょう)」と呼ばれる、今でいうところの医学書・薬学の書でありましょうか、時代を考えれば不老不死の法とも思える内容の書に出会い、陶弘景(とうこうけい)という方から授かります。喜んで国へと帰る道中、菩提流支三蔵(ぼだいるしさんぞう)に出会います。三蔵と名の付く方は三蔵法師です。西遊記にも三蔵法師が登場しますが、三蔵法師は一人じゃないんですね。曇鸞は菩提流支三蔵から浄土の教えに導かれます。このときに『仏説観無量寿経』を授かったとかも言われますが、実際にどの経典だったのかは諸説あるところです。阿弥陀の仏さんの教えに出会い、長生きして修行を続けた先にある悟りを目指す道の他に、今ここで助かる道があると知った曇鸞は、その場で仙経を燃やして国へと帰りました。
親鸞聖人がわざわざ曇鸞大師のエピソードを正信偈にお入れになった思いを勝手ながらに考えると、阿弥陀の仏さまのお導きに気づくことなく長生きすることよりも、短い命であろうと仏法に出会っていくことの方が大切だと伝えたかったのかなと思います。もちろん生きられるだけは生きたいものでありますし、長く生きてはみたいですが、いつかは必ずこの身体は滅びる。長くても短くてもその事実は変わりません。ある葬儀場のチラシに「まさかのことがあったときにはお電話ください」と書いてあるのを見ましたが、死はまさか起こることでは無いですね。みな必死です。その命の中で阿弥陀さまに出会っていくことを何よりも大切にしたから、曇鸞大師のエピソードを正信偈に入れたんでしょうね。