正信偈12 「獲信見敬大慶喜 即横超截五悪趣」

正信偈12
 
獲信見敬大慶喜 即横超截五悪趣
 
私たちが日々、迷いの世界を巡っていることを輪廻(リンネ)と言います。六道輪廻(ロクドウリンネ)と言ったときには六道、つまり、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の6つの世界を表し、五悪趣(ゴアクシュ)と言ったときには六道から修羅を抜いた、地獄、餓鬼、畜生、人、天の5つの世界のことを指します。この世界は全て迷いの世界です。未来に、死後に行く世界ではありません。今いる世界です。今この瞬間、これらの世界を巡ることを輪廻と言います。
 
私たちは一日中、この迷いの世界をぐるぐる巡ります。朝には新聞を読みながら腹が立って地獄道のど真ん中、昼には他人より少しでも美味しいところを食べたいとの卑しさから餓鬼道に行き、夜にはたわいもない口論がエキサイトして修羅道へと落ちていきます。これらの迷いの世界は円環状のようであって、いつも必ずそのどこかにいます。今何をしていても必ず迷いの世界にいるのが私たちの実情です。
 
南無阿弥陀仏と信心があって喜ぶ人は、この迷いの世界を超えているんだと言うのが親鸞聖人です。死後ではなくて今この瞬間のことです。才市さんは「しんだことない わたくしが しなんついでに さとりをもらう ごおんうれしや なむあみだぶつ」とうたいます。「こえる」には二つあって、「越える」は地続きの道を進むことです。「超える」は一つ上の次元に飛ぶことです。離れたようで離れていなくて、離れていなくて離れているのが「超える」です。平面の世界の出来事ではありません。人としての体の命があって生きていますから、もちろん迷いの世界にいながら、でもそこから離れた真実の世界に同時に存在するような、不思議なことです。
 
勘違いしてはいけないのは、これは自分の力で超えたことではありません。ピッチャーが投げたボールが空に放物線を描いて飛んでいくときに、ボールが自分の力で飛び始めた理屈はありません。ピッチャーの力によって飛んだものであります。私たちが超えるときも、あみだの仏さまのはたらきによって超えていきます。信じさせられ、念仏させられ、喜ばせられ、超えさせられる私たちであります。

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