正信偈18「天親菩薩造論説 帰命無碍光如来依修多羅顕真実 光闡横超大誓願」
正信偈 18
天親菩薩造論説 帰命無碍光如来
依修多羅顕真実 光闡横超大誓願
「こえる」には二つの漢字があります。「越える」と「超える」。「越える」は地続きの道を通ってこえる字です。峠を越えるとか海を越えるとかいうときに使います。連続した道を一歩一歩進んでいつか辿り着く意味があります。仏道修行をコツコツと続けていつか悟りの道に辿り着くときには「六道を“越”える」と言うでしょう。
「超える」というのは一気に地平を離れることを言います。一瞬の間にあっという間にその場を離れて辿り着いている。どんな道を歩むこともなくいきなり辿り着く、これが「超える」です。
あみだの仏さまが私たちに六道をこえさせるときには「超える」を使います。親鸞聖人は『歎異抄』の中で「いづれの行もおよびがたき身なれば」と、「私はどんな仏道修行をしても六道を越えられない身であった」と自戒されています。“越”えられない私たちを“超”えさせるのがあみだの仏さまの願いです。本願です。絶対にできないことをしてしまうから不可思議です。ただの願いでなく“大誓願”です。仏教の言うところの“大”はスケールが違います。カフェのコーヒーのビッグ・スモールのような対比ではありません。想像を超えて圧倒的に大きいものごとだけに“大”を使います。
「修多羅」というのはお経です。お釈迦様の法が文字におこされ始めたときには今のような立派な紙はありませんでした。葉っぱに書いて紐でまとめる。元々はこのまとめた紐のことをsūtra(シュタラ)と言いました。お坊さんが葬儀のときにつける紐も修多羅という名前です。焼香するときにおじぎをするのはお坊さんに向かってではありません。お坊さんのつけている修多羅に頭を下げます。お坊さんはただの人間です。修多羅はお経の意味で、法を示すものです。「依修多羅顕真実」と、天親菩薩は修多羅によって真実が顕されると仰った。私たちが真実の法を聞けるのはお経からのみです。だから修多羅に頭を下げるんです。お坊さんは人間ですから嘘だってつきます。袈裟を着てるとなんだか偉そうに見えますが袈裟を脱げばただのハゲボウズです。頭を下げる方を間違えないでください(笑)