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縁起説の自己都合解釈、悲しい

先の大戦。祖国日本を護るために自らの命を懸けた方々がいた。特攻隊。彼らは十死零生の特攻攻撃を仕掛ける。敵の戦艦めがけてその命を海に散らした。

パリオリンピックの卓球代表であった早田ひな選手が帰国後のインタビューで「鹿児島・知覧の特攻資料館に行きたい。生きていること、卓球ができることが当たり前で無いと感じたい(意訳)」と話したということを今更ながらに知った。

自らの命や今の環境というものは当たり前に存在しているのではないと、自己以外の何かのおかげさまで存在しているという、24歳でこの境地に辿り着いているんだから驚きである。この発言だけで国民栄誉賞ではないか?とまで思った。

ここまでは心の育った素晴らしい卓球選手を知った感動の話だが、続きがある。

仏教者が縁起説を持ち出してこのことを語った。

「仏教には縁起説というものがあるように、AがあるからBがある、BがあるからCがある。CがあるからDがある。縁起説で説明ができるように、私たちの今があるのは特攻兵の方々のおかげです。」と。

続けて、戦争への悲しみ・戦争の虚しさを語った。

仏教者でない一般人が語る分には殊勝な解釈であるが、仏教者が語る分には不十分な解釈であると私は考える。

これは縁起説の自己都合解釈である。縁起説というものは自分に都合の良いものだけを繋がっていると考えることではない。

例えば、特攻兵が自分に繋がっていると言うのならば、戦争も自分に繋がっている。戦争によって今の自分があるとも言える。アウシュビッツによって今の自分がある。南京大虐殺によって今の自分がある。原爆投下によって今の自分がある。

縁起説は因果によって説明されるが、ここまでは「今の自分」を果としている。因の場合を考えてみると、自分によってウクライナの戦争がある、自分によってガザ地区の虐殺がある。自分に都合の悪いものであってもそれに繋がっていくことが見通すのが本来の縁起説であろう。

もう一歩踏み込んで、自分によって悲しみが生まれることにも目を向けていかねばならない。

「国のために命を懸けた方々のおかげで今の自分がある」
これは大変素晴らしい考えであるが、そこに縁起説を持ち出すのは非常に危ない。仏教者であるならば、縁起説を自己都合解釈せずにそのまま頂いていくべきであろう。


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