本の記憶を辿って
十五年ほど前の東京に、洋書専門の古本屋というのがあった。
ある秋の日、私はそこで一冊の小説を手に取っていた。その本は、当時、世界的ベストセラーと言われていた推理小説だったが、保存状態も良いのにセールの籠に無造作に投げ入れられていた。
表紙をめくると、最初のページに「Dear John」から始まる英文のメッセージが手書きで記されていて、それは「また会う日まで」という言葉で終わっていた。誰が書いたのかは分からない。筆跡は女性らしく、優しい言葉が綴られていた。
パラパラとページをめくっていると、栞のように一枚の白い紙が挟まれていることに気づいた。少し厚めの上質紙を直径3センチほどの円形にカットしたもので、手に取るとほのかに香水の香りがした。少し前まで世界中の香水を集めていた私には、それが高級ブランドの香水であることが直ぐに分かった。ジャスミンとネロリが奏でる、経験豊かで落ち着いている女性に似合うような「大人」の香りだ。
年季の入った本棚の間で、私の想像力が勢いよく掻き立てられていった。洗練された筆跡と上品な香りが、一人の女性のイメージを創り出していく。手入れの行き届いた甘栗色の長い髪、軽やかにカールする柔らかい毛先が女性らしい背中のカーブに沿って揺れている。モカ色のシフォンワンピースの裾が軽く舞い、細いヒールがタンゴのようなステップを滑らかに刻む。温かく包み込むような声でJohnと囁き、少しだけ日焼けした華奢な指で彼の頬に触れる。
Johnという男性とメッセージを書いた「大人」の女性はどういう関係だろうか?彼女はなぜこの本にメッセージを書き、彼に贈ったのか?この香りを栞にしたのはどちらだろう?私を忘れないでという彼女の願いか、忘れられない女性を偲ぶ彼の気持ちの表れか。彼らは再会したのだろうか?古本として売られていることを考えると、それぞれ新しい道を選んだのかもしれない。
真実を知ることはできないと分かっていた。それでも、小説そのものよりも、私の想像から生まれた彼らのストーリーに私はどんどん惹きつけられていった。
もう一度、栞を顔に近づけた時に電話が鳴った。待ち合わせをしていた彼氏が最寄駅に到着したのだ。私はそっと本を籠に戻して店を後にした。彼にこの話をしたらどんな想像をするだろう、そう思いながら私は足早に駅に向かった。
秋晴れの空高く、少しだけ焚き火の香りがする日だった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?