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羊羹理論

大学生の頃、ティーンズポストのレターカウンセラー体験講座を受講した。
活字にまつわる仕事に就きたいと思っていた学生時代、その活字を用いて精神保健的アプローチができればと考えていたように記憶しているが、
この考えはおそらく、センジュ出版の微かな礎になっている。

ここで羊羹の話を聞いた気がするのだが、どうだったか。
とはいえ今現在まで、わたしにとって羊羹理論は自分を形成する大きな要素となっている。

羊羹ひと棹を思い浮かべてみてほしい。
美しいあの箱型、その羊羹の端の一部分が腐っていたら、あなたはどうするだろう。
一部分を切り落とすか、一本丸々捨ててしまうか、腐っていくままにするか、或いは腐っているのも気にせず食すか。

この羊羹が人間の心であったならどうだろう。
自分の中の腐っている部分、見たくない部分、闇を抱えた部分、
それらに対し、あなたは切り落としてしまいたいのか、それがあるゆえに自分ごと生まれ変わりたいのか、見て見ぬふりをしたいのか、或いは気にしないのか。

講座でわたしが聞いたのは、「人の心は切り捨てられない」というものだった。
心のひと棹の中に、光も闇も存在する。
腐っているからといって、羊羹を切るように、自分の弱さを放ることができない。
だからこそ、自分の中には強さも弱さも同じようにあるということを、
自分自身がまず知り、それを受け入れることが大切だ、という内容だった。

社会に出る前の、20代そこそこのわたしがこの話を聞くことができたのは、
その後の人生において本当にラッキーだった。
どんなに自分の闇を見ようと(当然見たくもなかったし、それがあることで自分を辞めたいと思ったことも少なくないものの)、
羊羹のように切れない、とどこかで理解していたからだ。
その弱さを心底嫌うことはできなかった。
それは他者に対しても同じ想像を働かせることにつながった。

しかし、ここにきて、本当にわたしの心の中は腐っていたんだろうかと考えるようになっている。
もちろん自分の中には、光と闇が相変わらず息づいてはいるのだけれど、
わたしの羊羹はその光と闇を、先日美味しくいただいた天の川羊羹が「琥珀羹」「味甚羹」「小倉羹」と断面ではっきりと分かれていたように、
綺麗に境目があるのだろうかと、疑問に思った。

量子力学の世界ではすでに、素粒子をもっと細かく観察すると、それは粒であり、波であること、そして、人がそれを観察すると粒になり、見ていないときには波であるということを証明している。
アインシュタインが、この量子力学から導き出されたこの非実在性について、「私たちが見ていないときには月が存在しないというのか」と否定した話は有名だ。

とするのなら、わたしの心の中の羊羹の中に光羹と闇羹があり、それが目に見えるようにはっきりと分断されて存在しているとしているのは、
わたしの観察がもたらしたのかもしれない。
もしここに執着せず、観察する、意識するのをやめてみたらどうなるだろう。
わたしの中の光羹と闇羹は波になり、目に見えないほどに混じり合うのではないだろうか。
あること、そのものは否定しない。
意識すれば簡単に、闇羹はわたしの中に姿を見せることをわたしは知っている。
でも、その腐った部分がまるで粒が波になるようにバラバラと散らばったなら。

わたしの羊羹は、光羹でも闇羹でもなくなって、
わたしの羊羹になった。

これからも、粒になったり、波になったりを漂いながら、
この羊羹の最後のひと切れがなくなるその日まで、
ゆっくり味わってみたいと思う。


#今日の (正確に言うと昨日の)一冊
#量子力学の哲学
#森田邦久
#198 /365

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