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中・東欧周遊の旅をゆく バッハ その1 ベルリン 父の記録

父の遺品を整理していたところ、定年後に旅した記録が書斎から出て来ました。1991年と2000年ですから30年以上前の話。モーツァルトやバッハ、絵画が大好きだった父は独学でドイツ語も学び、独りヨーロッパへ旅立ちました。

父の文章や撮り下ろし写真、フリーのイメージ写真等を盛り込み、デジタルデータとして完成させ残してあげたいと思います。5回にわたりご紹介させていただいたモーツァルトに続き、今回はバッハその1です。

目次
・プロローグ
・フリードリッヒ大王の、ポツダム
・首都ベルリンへ

中・東欧周遊の旅をゆく バッハ没後250年記念の年に 父の記録

プロローグ

この春、西暦2000年ミレニアムの年を迎えた。21世紀を目前にして、いまや、あらゆる情報が瞬時に世界をかけめぐる時代である。彼の地のニュースがリアルタイムで間を走る。狭くなったことの実感がひしひしと感じられてならない。

昨秋、私は、約半世紀に及んだ職場勤務にピリオドを打った。残された人生、その時間がどれほどなのか? は知る由もない。 折からバッハ没後250年の節目でもある。いくばくかの身体的余力があるいま、敬愛するバッハの聖地を訪れるには、絶好の機会であろう、私は、意を決して旅のスケジュールに取り組んだ。

私にとってゲーテ街道は、そのままバッハ街道である。とりわけ、ライプツィヒはバッハが生涯の後半を過ごしたまさに聖地である。

私は、ぜひ、さわやかな季節に訪れたいとかねてから希望していたものの、このコースへ希望者が少なく催行不可とのこと。アイゼナッハワイマールを省くのは実に残念だがタイミングもある。

そこで、代わって選択したのは「東周遊コース」である。このコースはベルリンから、バッハ父子ゆかりのポツダムを経て南下し、ライプツィヒ、ドレスデン、プラハ、そのうえ都合よくウィーンの森が含まれているではないか、さらにはブダペスト、いずれも音楽都市といってよいであろう。こうして、私は5月24日からの日程を選び、機上の人となった。

フリードリッヒ大王の、ポツダム

出発時刻の都合から、5月23日、関西国際空港内の日航ホテルで前泊、24日(水)9:40発の ルフトハンザ航空LH741便をフランフルトで乗り継ぎ、ベルリンはティーゲル空港に現地時間17:25 に到着、時差7時間、延べ14時間40分を要した。

ベルリン ティーゲル空港

空港からホテルのバスに乗り換え、夕刻18:55、ポツダム市外のウェスタン・パークホテルに到着する。この辺りはサンスーシ公園に隣接する森に面した閑静なところで、ホテルは、山荘風の3階建て、こじんまりとした造りであった。私たちはここで2泊の予定である。

さて、25日(木) 08:40にホテルをでて、Amポツダム観光から始まった。ポツダムはブランデンブルク州の州都、人口14万人、ベルリンの南西、快速で約20分の近郊にある。

途中、市内で現地日本人女性ガイドさんを迎え、先ず「サンスーシ宮殿」を訪れた。プロイセン王国3代国王フリードリッヒ・ヴィルヘルム2世(在位1740~86年)が夏の居城として1745~47年に建てたロココ様式の宮殿である。サンスーシ(憂いない)は「無憂宮」と呼ばれ王が生涯の大半をここで過ごしたといわれる。

サンスーシ宮殿

バッハがここを訪れたのは1747年、大王の招きをうけてのこと、当時、次男エマヌエルが大王の宮廷にチェンバロ奏者として仕えており、45年にエマヌエルの長男ヨハン・アウグストが生れ、初孫に会うことも楽しみだったようである。

バッハは大王の前で自作の曲をオルガンやチェンバロで演奏した。さらに大王に主題の提示を求め、並みいる王侯貴族の前で即興演奏し大王を驚嘆させたといわれる。

これが「音楽の捧げもの(BWV1079)」である。私が最初にこの曲を聴いたのは1957年頃、LPレードの初期。カール・ミュンヒンガー指揮、シュツッツガルトオーケストラによるものであった。大王に対する畏敬とプロイセンの繁栄をねがう崇高な曲想、壮大な構成に感嘆した。

この後、近くの「ツェツィリエンホフ宮殿」へと向かった。ツェツィリエンホフ宮殿はハペル湖に面した英国風の館で、ホーエンツォレルン家のヴィルヘルム皇太子が1923年から45年まで住んでいたところだという。飾り煙突が多い。

戦後、駐留していたソ連が残した赤い星形の花壇がいまも続いている。湖に面した庭は自然の野原のようである。ここは、なんといっても1945年7月から8月に行なわれた米、英、ソ三首脳による「ボツダム会議」の会場として、歴史に刻まれた場所である。

赤い星型の花壇

首都ベルリンへ

栄光と悲惨、かっての帝国都市ベルリンはいま、再び統一ドイツ国家の栄えある首都として活気にみちている。人口350万人は首都としては必ずしも大きくはない。しかし、ミュンヘン130 万人、フランクフルト66万人などに比べれば、やはりドイツのなかでは王者である。

ドイツの歴史をたどればわかるように、貴族領主が支配する小国がやがて連邦国家を形成した国である。ベルリンは、かってのプロイセン王国の首都であった。そして、敗戦後は、仮首都をボンに預託しながら分割の悲哀に耐え、首都復帰を待っていたのである。

さて、私たちはベルリン市内の「レストランPAULANER」で昼食を終え、14:40から市内観光 に入った。コースは市中心部から始まり、先ず、6月17日通りを東へ、ティーアガルテン中央口ータリーにそびえ立つ「戦勝記念塔」 (~1873年建立)、金色の勝利の女神を67mの塔上に仰ぎみる。

レストランPAULANER

ほどなく「ブランデンブルク門」 (~1894年建立) につく、ここは6車線道路、西から東への一方通行である。バスを降りて門に近付いてみる。プロイセン王国の凱旋門として建立されたもので、上に4頭立ての馬車に乗る勝利の女神をいただいている。

ブランデンブルク門

「フンボルト大学」前を過ぎると、先に「テレビ塔」がみえてきた。「ベルリン大聖堂」手前でシュブレー川の運河添いに北へ入る。中州に建っている「ペルガモン博物館」 (1830年創建) に着く。

博物館をあとに、テレビ塔の手前からホルツマルクトミューレン通りへ進めば、シュプレー川添いのイーストサイドギャラリーに着く。「ベルリンの壁」はいまなお、市内数ヶ所でみられるが、ここでは約1.3Kmがオープンギャラリーとして保存されている。

内外のアーティストが多様な主張を展開している。すでに相当時間を経過したこともあって、一部の箇所でペインティングを落して白く塗り替える再生作業が行なわれていた。

ベルリンの壁

つづいて、市西部にある「シャルロッテンブルク宮殿」へと向かう。ここは、初代プロイセン王フリードリッヒ1世 (1701~13) の妃、ゾフィー・シャルロッテ (1668~1705) の夏の離宮として17 世紀に建造されたものである。規模はやや小さいがシンメトリーなバロック様式の建物は優美な姿をみせてくれた。

シャルロッテンブルク宮殿

クーダムに戻りしばらくフリータイムとなる。各自、ショッピングなどへと散った。私は同行のKさんとツォー駅に近いオイローパセンター付近を散策、ビル内の水時計や地球儀噴水をみたり、広場の椅子に掛けて小休止した。 19:05 市内のレストランSCHNITZEL PARADIES で夕食をいただきながら歓談のひとときを過ごしたのち、 21:40 ホテルへ戻った。

・・・その2へ続く

ご興味ある方は、詳細をblogでご覧いただければ幸いです


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