中・東欧周遊の旅をゆく バッハ その2 ライプツィヒ 父の記録
父の遺品を整理していたところ、定年後に旅した記録が書斎から出て来ました。1991年と2000年ですから30年以上前の話。モーツァルトやバッハ、絵画が大好きだった父は独学でドイツ語も学び、独りヨーロッパへ旅立ちました。
父の文章や撮り下ろし写真、フリーのイメージ写真等を盛り込み、デジタルデータとして完成させ残してあげたいと思います。5回にわたりご紹介させていただいたモーツァルトに続き、今回はバッハその2です。
目次
・バッハの聖地ライプツィヒ
・マイセン磁器工房をみる
・ザクセンの州都ドレスデンへ
中・東欧周遊の旅をゆく バッハ没後250年記念の年に 父の記録
バッハの聖地ライプツィヒ
5月26日(金) 07:30発である。ポツダムからライプツィヒまで156Km、アウトバーン9号線を走る。この辺りは丘陵地帯、麦畑が延々と続く。車中のスピーカーは添乗員さんが準備してきたバッハ名曲集を心地よくながしてくれる。
さて、ライプツィヒは、人口44万人、大学、見本市、出版印刷の街といわれる。そしてまた、ゲーテやニーチェが住み、バッハのほかにもシューマン、リスト、などの音楽家が活躍したところである。
快晴のアウトバーンを走って10:15頃、ライプツィヒに到着した。バスは聖トーマス教会 のすぐ近くに停車した。いよいよバッハの聖地ライプツィヒの街に一歩を踏む。私は少し気持ちの高まりを覚えた。
聖トーマス教会牧師の家の脇に立ってバッハが在住した頃の街の様子などについて聞く。すでに知られるように、バッハはケーテンからこの街へ移ったのが1723年、ヨハン・クーナウ (1660~ 1722) の後をうけて27年間、聖トーマス教会付属学校カントル (合唱長) として教会音楽の仕事に没頭した。
さらに、教会正面脇の小公園にあるバッハ記念像をみる。1829年頃、マタイ受難曲を蘇演した青年メンデルスゾーンによるものだといわれている。小さな4面のレリーフであるが、バッハの肖像、オルガンを弾く像などが刻まれており親しみ深く思われた。
このあと、マルクト広場のテント市場、再建された旧市庁舎(現歴史博物館) の前から旧商品取引所前のゲーテ像をみてニコライ教会へと向かう。かつて、ニコライ教会でもバッハは日曜日の礼拝などで合唱隊を指導している。
ガイドによれば、1989年10月、ここで民主化要求デモに対する警察の鎮圧事件があったが、なおも数万人の民衆が平和の祈りに結集したことが発端となってベルリンの壁崩壊、東西統一への大きなながれが生まれたという。
内部を一巡した後、メドラーバッサージュを歩く。ゲーテのファウストに登場するという居酒屋アウエルバッハス・ケラーの入口にファウスト博士とメフィストフェレス像があった。
マイセン磁器工房をみる
午後は13:30発、アウトバーン14号線をマイセンへ、夕刻までに約100Kmの道程を経て宿泊地ドレスデンへ入るという。実際は一般道も通ったのでマイセンに到着したのは15:50であった。
さっそく国立マイセン磁器工場付属の磁器博物館と見学工房をみた。磁器博物館ではビデオ映像による歴史紹介、すなわち、ときの選帝侯アウグスト1世の強力な支援のもとで、 それまで東洋でしかできなかった白色磁器の製造をベトガーらによって完成したこと、アルブレヒト城内に工房をつくり、製造秘密を守らせたことなどが説明された。
なお、トレードマークである「交差した青い剣」の形によって製造時期が判別できるという。 1、2階の博物館にはあらゆるタイプの磁器製品が数多く展示され、食器・人形など、形、デザイン、ポピュラーなコバルトブルーをはじめ、金彩など、気品高く、華麗さを誇っているようである。
1階の見学工房では、ろくろ型取り、パーツの組み付け、繊細な絵付けなど、モデル作業を1室ごとに見ることができた。マイセンをでて約1時間、夕刻 18:20、ドレスデン市内のホテル、アストロンに到着夕食はホテル内でゆっくりいただいた。
ザクセンの州都ドレスデンへ
ドレスデンは、 かつて「百塔の都」「エルベのフィレンツェ」ともいわれ、人口48万人、チェコ国境まで40Km近くの、エルベ河に沿った街、古くからの芸術文化都市といわれてきた。。
バスはエルベ河に架かるカローラ橋を渡る、この橋の上からみるエルベ河左岸の歴史的建造物群の景観は見事というほかはない。バスを降りてエルベ河左岸ブリュールのテラスへと向かう。
先程、通った新市街側に配置されている建造物が対岸に一望される。歩いている左岸側では、先ずネオルネッサンス様式のアルベルティーヌム (王家の財宝を展示) の見事な石造建築とその装飾が仰がれる。
歩をすすめるにしたがって、カトリック宮廷教会、ゼンパーオーバーが見えてくる。ここからいったんアルベルティーヌムの後へ廻ると、いま、再建中のフラウエン教会の足下に入る。
ここは、かってドイツ最大のプロテスタント教会であった。史実によれば、ライプツィヒに奉職していたバッハが、1736年にこの教会のジルパーマン製オルガンによる演奏会を行なったことが知られている。
このあたりは人や車の動きも混沌として喧騒な雰囲気につつまれていた。ついで、かつての武芸競技場の長い回廊外壁に描かれた「君主の行列」をみる。当初は漆喰で描かれていたが、その後、現在みられるようにマイセン磁器タイル (長さ102m 25,000 枚使用) によって転写されたものである。
「君主の行列」壁画を見た後、再びブリュールのテラス下手の階段を登ってゼンパーオーバー、カトリック宮廷教会レジデンツを一望しガイドから説明を聞く。ゼンパーオーバーから楽音が聞こえた。1826年に創設されウェーバーが初代音楽監督を務めたところである。
カトリック宮廷教会(~1754)についてはプロテスタントの当地として特異な存在であるが、 理由あってのこと、アウグスト強王がポーランド王を兼ねたときに改宗し、これを建てたとのことである。上下屋根の干に数多くの聖人像が立っている。黒ずんだ外壁は石材中の鉄分が酸化したものだという。
つぎ私たちはツヴィンガー宮殿へ向かった。この宮殿はアウグスト強王の時代(1732 )にできたもので、先ず、中庭を抜け濠の外へでて 「王冠の門」(クローネン・トーア)をみる。門の上のポーランドの王冠はアウグスト強王の栄光を象徴、黒地、金色の輝きが青空に映えて美しい。
つづいて、北館のアルテ・マイスター絵画館をみる。ここは、見るべきものが多く気持が思わず急いでしまった。カナレット (1697~1768)の部屋では 「エルベ河とアウグスト橋」、「ドレスデンのツヴィンガー宮殿」 など、密に描かれているので時代考証に役立つようだ。
彼はヴネツアの画家、イタリヤ以外では、ロンドン、ドイツ、ウィーンなど各地で活躍した人である。オランダ絵画の部屋では、レンブラント (1606~1669) を探してみた。自画像聖画などの群像作品でも「光と影の巨匠」を強く印象づける。
また、ヤン・フェルメール (1632~1675) の2点に会えた? のは幸運であった。「窓辺で手紙を読む女」はほのぼのとした印象、「周旋(素)」は後年の画風と明らかに異なっている。
イタリヤ絵画ではダヴィンチ、ミケランジェロと並ぶ三巨匠の一人、ラファエロ (1483~1520) 「システィナーの聖母」 が部屋の正面を飾っている。
聖母子像の様式としては愛の聖母タイプとみてよい、静ななかに一瞬の動きが感じられる。
*画集によるとこの作品は、ベルナルド・ベロット (1697~1768 カナレットの甥)、承認 アントニオ・カナレットとされていることから共同制作かもしれない。
さて、新市街のレストラン( DER LOEWE)で昼食後、しばらくフリータイムとなる。そこでプラタナス並木のハウプト通りを散策した。この通りは戦禍を受けなかったらしく、バロック風の建物が落ち着いた街並を呈している。
午後は国境を越えてチェコの首都、プラハへ向かう。15:15初めての国境を越えである。 ドイツからチェコへの国境検問所で検査官がバスの中へ入ってくる。パスポートの顔写真を見開きにしてチェックを受ける。
各自、バスから降りて通貨交換所へ行く。一斉にマルクからコルナへの通貨交換を請求するので係官が忙しそうだった。チェコに入りすぐ近くの店でコルナを使ってみる。
さっそく買い求めたチェコのビールは随分安く (1缶18KC≒54円) 美味しく思った。バスは、なだらかな丘陵地を通る、例によって、車中にはOさんが用意したスメタナやドヴォルザークの曲がながれている。
ときおり、草地に群生する赤い芥子の花が視界に飛び込んでくる。あるときは、点々として集落を通過、夕刻 18:20 プラハ市北郊外のホテル、デュオに到着した。
・・・その3へ続く
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