2024|作文|365日のバガテル
観劇、新宿歌舞伎町。
歌舞伎町、2022。
2022年初夏。足繁く通った歌舞伎町。風俗目的ではない。歓楽目的ではない。通っていたのは、公園のリノベーションのためだ。向かう先は歌舞伎町のど真ん中にある新宿区立大久保公園。そこにあるプレイグラウンド、色あせて幾筋ものクラックが走るバスケットコート。そこを整地し、アート作品を描き、スポーツするのに適したペンキを塗り、真新しいゴールを設置する。そんなプロジェクトを自らの手で行なっていた。この活動は go parkeyというプロジェクトチームとしてアーカイブしているからそちらのホームページが詳しい( https://www.goparkey.com/ )。その公園を囲むようにしてそびえ立っていた高層ビルがある。1つは大久保病院。緊急医療に特化してるのもあり、コロナ禍だった当時は、連日、物々しいサイレンが鳴り止むことはなかった。防護服のようなものを来た医療スタッフが搬送している姿が印象に残っている。そして、もう一つは当時建設中だった歌舞伎町タワーだ。無謀にも真夏の太陽に近づいていくイカロスのように背を高くするタワーを横目に、地べたを這うようにペイントしていた夏。あれからちょうど2年が経っていた。
雨の歌舞伎町、12h45。
大久保公園のアートコート・プロジェクトが成就してから1年後、歌舞伎町タワーも完成した。数ヶ月の間、ほぼ毎日通っていたから、その一帯がどういった仕上がりになっているか十分にわかっていた。ニュースになっている以上のことが、日々起きていた。立チ●ボやケンカやパトカーの出動などは、まさにこの大久保公園のフェンスのすぐ外で起きていた。「こんなに近いところにあるけど、歌舞伎町タワーに行くことあるかな?」なんてことをプロジェクト仲間と言い合ったのを思い出す。ペイントや完成後にプレーするのも、晴れの日にしかできないこと。だから、雨が降る日に行くことはまずなかった。2024年7月。雨が降る日。久々に歌舞伎町を歩いた。目指したのは大久保公園ではなく、(果たして行くことがあるのかな)と思っていた歌舞伎町タワー。あの夏の炎天下、太陽に近づこうとしていたタワーを見上げると、雨に霞んでとっくに完成しているてっぺんは見えなかった。今日は、ここで上演される演劇『ふくすけ2024-歌舞伎町目次録-』を見る。
歌舞伎町タワー、6F。
雨は公園バスケには天敵だけれども、演劇をゆっくり腰をすえて見る日にはそれも悪くないと思った。意味もなくちょっとメランコリックになったりして。気分はデビッド・フィンチャー監督『セブン』の初老のモーガン・フリーマン演じる、雨にぬれるサマセット刑事の気分。少し前ならブラッド・ピット演じるミルズ刑事の方をうっかりイメージしたかもしれないが、さすがにそれは図々しい年齢になっている。そんなことを考えながら、タワーに入っていった。エスカレーターで6階までいく。そこはフロア丸っと、シアターになっている。MILANO-zaだ。上演される作品は松尾スズキさんが戯曲を描き演出を手がけた20年以上前の人気作品。今回は歌舞伎町を舞台にしたアップデート版だという。3時間の上演時間は1度休憩を挟んだもののあっという間だった。めまぐるしく登場し場転や暗転していく演者たち。彼らが放つ、今やテレビや映画、小説でも憚られるであろう乱暴な言葉。コンプラにギリギリセーフどころか余裕でアウトな表現。時世や、その当事者である観客を扇動し揶揄するシーン。それらは歓楽と欲望を丸呑みにしている歌舞伎町の喧騒そのものだった。
歌舞伎町、15h30。
全員が歌舞伎町の脇役で、全員が人生とこの舞台の主役だった。劇中、ふと思い出したのは老刑事サマセットではなく、戯曲家・寺山修司さんだった。松尾スズキさんと寺山さんをここで比較したいわけではない。ただ、アジテーター寺山さんがそうだったように、そして井上ひさしさんや、もっと昔の演劇人たちがそうであったように、演劇は生ものであり、そこは検閲や自粛や忖度のない表現のマグマがあるということを改めて直接的に感じさせられたのだった。肌を突き刺してくる感じだった。演劇だからこそ伝えられることがある。今回の作品はまさにそういうものだった。少なくとも自分にとってはそうだった。印象的だったセリフがたくさんある。その1つだけ書いておくと、ふくすけが放った「本当に優しいなら僕とセックスできる?」。これは風俗街を内包する歌舞伎町ならではのセリフと取ってもいいけど、そうではなく真理だなと思う。優しいって、優しくする(優しいと思う)側のものではなくて、何が優しいことなのか、何が重要なのか、それらをわからない側が感じるものなんだよな、やっぱり。異形のふくすけから投げつけられるこの言葉に、手も足もでなかった。
歌舞伎町、2024。
楽しい観劇だった。メッセージもたくさんもらえた観劇だった。がんじがらめになって、人を傷つけないようにすることだけで精一杯な今を生きる我々の時間。そんな中で、悲惨でモラルもないような、(映画や小説やニュースの中の歌舞伎町ではない)もっと実際的な、(2022年の夏にいろいろ見たことよりも)もっといろいろな歌舞伎町を舞台(歌舞伎町というものを借りて)にした、オブラートなんかに包む必要なんかないよ、もっと必死だし悲惨だしゲスだよ、っていう作品を見させてもらったのだった。過激なセリフがいいと言ってるわけじゃない。登場人物には善者も悪者もいない。というか、みんな今の世の言葉で言ったら、穢れている。卑しい。まるで、歌舞伎町に渦巻くそれを借りてより悲劇的なものになっている。このような作品をディープ・サウスならぬディープ・カブキな大久保公園一帯を見下ろす歌舞伎町タワーで見るというのは、語弊があるかもしれないけれど、とてもよかった。観劇後、タワーを出て、新宿駅には向かわずに、大久保病院から大久保公園へと歩いた。
新大久保駅、16h35。
雨に濡れたアートコートには誰もいなかった。いつもなら公園でライブのネタ合わせをしている若手芸人さんたちもいなかった。ここで作業していた夏は、昼間から立チ●ボがいたけれど、摘発も何度かあったし、雨が振り続けているし、さすがにいないだろうと思ったら、(おそらく)値段交渉の真っ最中の現場に出くわした。そういったものも、すべては実際的なものであり、さっきまで見ていた舞台が絵空事のようには感じなかった。新宿駅の方が近いかもしれないけれど、新大久保駅の方へ向かった。2022年の夏も、新大久保駅を利用していた。そっちに行く方が喧騒が少しやわらぐからだった。寂しくてたまらなくて、だからといって、家族の中にいても拠り所がない人たちが自然と集まってきてしまう歌舞伎町。喧騒とそのノイズに塗れてしまえば、恐ろしいことをしでかしてしまいそうな独り言も気にならないのかもしれない。自分もいつかそんな孤独に負けてしまうときが来るのだろうか。ときどき、そんなことを考える。とくに歌舞伎町に通っていたあの夏は考えていた。ただ、今はまだそんな喧騒に埋没することから逃れようとする自分がいる。欲望の喧騒に背を向け駅へと向かう。この作品がまた再演されることがあるなら、必ず見に行くと思う。そのときに自分はどんな姿をしているのか。そこに生き方がでているはずだ。