2021|作文|365日のバガテル
エンド・オブ2021年。
ワンダフル・クリスマスタイム
私は小学校時代の6年間。私のサンタ(母親)に、その年に流行っているおもちゃを1つお願いしてきた。4WDのラジコン、ガンプラ、ゲームウォッチなどだ。その願いは一度も叶ったことがなかった。母親は徹底していた。ひたすら6年間、文房具セットを私の枕元に置いた。がっかりした記憶もあるが、ある時からはクリスマスというのは、うちではそういうものだと思うようになっていた。それでも毎年、おもちゃをお願いはしてみた。いつも同じ。だけれど、次こそは違ったことが起きるかもしれない。そう思うだけでワクワクできた。今となれば、クリスマスのたびに思い出して、母親とのそのやりとりに微笑むことができる。それがいい。2021年も12月になると、一気に街中はクリスマスモードになった。きらめくイルミネーションに、かわいいトナカイのグラフィックに、自然と耳が拾うのはマライヤ・キャリーやワムやジョンレノンとオノヨウコのクリスマスソング。大人になってからは、私はクリスマスだからといって、何をするわけでもなくなった。それはハロウィンだろうがバレンタインだろうが同じなのだけれど。ケーキもオードブルもなし。そのときどきのステディに合わせて、求められればそれっぽいことをするだけだった。ただ、そんな私でも、冬の寒空の下を歩いていて、(クリスマスなんだな)って思って、微笑む瞬間がある。それは、たまたま通りかかった教会からミサの福音が聞こえてくるとき。カフェのポータブルレコーダーでポーグスの7インチ『フェアリーテール・オブ・ニューヨーク』がくるくる回っているとき。そして、街のどこかからポール・マッカートニーの『ワンダフル・クリスマスタイム』が流れてくるとき。夏とはまるっきり違う、透明感抜群の東京の夜気。吐く息と一緒に、その優しくてノスタルジアなメロディが空に吸い上げられていくようだ。それが少ししてから雪となって舞い降りてくる。そんな想像をしたくなる。華やぐ街の喧騒の中で、一瞬立ち止まらせ空を見上げさせてくれるのがクリスマスタイム。何があるわけではないが、その瞬間は私は幸せな気持ちになっている。
ユー・メイク・ミー・フィール
クリスマスまでは、その年のクライマックスはまだまだ先のようだ。なのに、それが過ぎると一気に年末感にせき立てられる。1年の終わりがやってきたと。片付けておかないといけないものはすでに片付け終わったのかと。あっという間に大晦日になっている。大晦日と正月は、日付変更線をまたいだだけのこと。だけれど、誰もが旧年を終わらせて新年をウェルカムするときに期するものがあるだろう。不思議な感覚だ。そして、1月の終わり頃になれば、もう倦んでくる。この繰り返し。そう思っているところで、誰もがいつかは繰り返せない年、その者にとって最後の年を迎えることになるのだが。終わりに向かって始まるということ。これは1日、1年、1人生、そして一瞬のすべてに内包されていること。私もようやく、そんなシンプルで当たり前のことを実感できるようになった。それだけ、大切な人たちを見送るという経験を重ねてきたからだろう。2021年12月、年の瀬に立って、改めてバガテル、自分自身のために書いておきたい。自らが、特定のコミュニティのどのポジションにいるかなんてどうでもいいと。学生時代や若い頃のコミュニティも、仕事関係のそういうのも、ポジションなんて考えたことがなかった。しかし、そうじゃない者もいた。そして、そういう者は自分のポジション確保のために、私たちのような者にも序列を与えたがった。スポーツチームでいうポジションや背番号みたいに、生きていくことにもそんなものが必要なのか。そういうことに右往左往して躍起になっている者にかぎって、表向きは巧妙に冷静ぶってスカしている。一方で、こちらの服の袖を掴んで手を放さない。これも、経験を重ねてきて気づけたことだ。私は、はっきり言って、そういう人間が大嫌いだ(相手側も本当は私を嫌いだろう)。気持ち悪い。本来の私たちは、アレサ・フランクリンが歌う『ユー・メイク・ミー・フィール・ライク・ア・ナチュラル・ウーマン』のように、ありのままでいいのだ。そして、そう気づかせてくれるユー(人)は、学生時代からのコミュニティやしがらみから現れるものだろうか。そうは思わない。歳を重ねた今の私に、たった1人のソウルメイトがいるとしたら、それがとても素晴らしいことだ。
3月9日
コロナ禍の年またぎも2回目。今年も年末は、帰省せずに東京で新年を迎える。ただ、撮影の仕事の帰り、実家の近くを通りかかった。高速道路を途中で降りて、墓参りだけでもしたいと思った。すでに陽は沈み真っ暗だったけれど、お線香代わりに祖父が愛煙していたLARKに火をつけてたむけた。実家はあえてスルーしたけれど、よく参拝していた地元の神社にも行くことができた。再び東京へ戻る車中、運転席のフォトグラファーと、なぜかレミオロメンの『3月9日』の話になった。その歌のプロモーション・ビデオの設定は、お嫁さんになる姉とそれを見送る妹のストーリーだなとか、ジャケットも若き日の姉妹の写真みたいな感じだったとか。車内に漂っていた撮影後の安堵感や年末モードやお墓参りの余韻とか、その日にあったことがいろいろと混ざって、私たち(おっさん2人)に影響を及ぼしたのだろう。この歌を、人生の晩年にさしかかった夫婦のストーリーだったとしたらどうだろうかって話になった。それも、妻からの目線の歌だとしたら、たまらなくなるなと。私としては、11月に他界した叔父さんの亡骸に、微笑みながらたくさんのありがとうを話しかけていた叔母さん(奥さん)の美しい姿に揺り動かされたものが、噴き出したのかもしれない。最後の最後。その瞬間がやってきたとき。瞼の裏に映る、記憶にしみついた、大切な人。その人の姿を思うだけで、ありがとうとか思ったり、かなしいのに笑えたり、強くなれたり、とにかく生き散らかしてきたけれど、その1人、その人がいたから、幸せだったと自分が思えるストーリー。そして、片割れである相手もそう思ってると強く信じきれるストーリー。フォトグラファーと私は、そんな夫婦がすごいなと話した。私の母や父は、どうだろうか。最後は夫婦という赤の他人だけど自分の片割れにありがとうと、心から思えたらいいな、笑えてたらいいな。故郷を出て行ったきり、なかなか帰ってこれない私なんかに言われたくはないだろうけど。喪失してかなしい、さみしい。それは自分軸の感情なだけ。その先にある、その人がおかしかった、その人が好きだったっていう、瞼に映る姿にありがとうと思って微笑むことができる人生でありたい。不思議なもので、お墓参りして、実家スルーして、『3月9日』から老夫婦の話をしてたら、母からメールが来た。父親のようだった叔父さんが亡くなって(兄)、食欲不振になってしまった自分に、初めて父がお粥を作って食べさせてくれたという。風邪ひとつひかず、子どもの私が残した食べ物をすべて平らげてしまうほどの食い意地大将で元気な母が食べれないということも、父がお粥の作り方を知ってたことも、意外だった。そういう人生の時間に入ってきてるんだろう。覚悟はしてるつもりでも、覚悟を踏みこえる時間が遠くはないのだろう。私たちは1回しか生きられない。その境地から2022年をはじめていく。