人生に深い意味などないのでは?仏人作家ウエルベックの「プラットフォーム」読後感
フィリピンの前半の旅のお供としてフランス人作家ミシェル•ウエルベックの小説「プラットフォーム」を読んだ。
こんなアンチな平凡な主人公を描ききったこの暗い作家にある種の親近感を抱いてしまった。
物語は主人公が父親の死後、突然の思いつきでタイに観光に行ったことから始まり、タイやキューバなどの第三世界での西欧人のセックス観光に焦点を当てた物語。
平々凡々な西欧の庶民、または医師や弁護士なども休暇をタイなどで過ごし、そこで観光したり売春セックスしたり、いやそれだけをするために旅行に出るという、普通は隠されている人間の裏の事実を白昼のもとにさらけ出す。
そしてその需要を当てこんで、おおっぴらにセックス観光事業をタイで立ち上げる。現代の資本主義のある行き着く果てを活写した。
が、その結末は、悲劇で終わった。。
私がこの作家に共感を覚えたのは、主人公が生きる動機もなく、他者との連帯感も感じず、飄々と人生の裏道を歩くような地味な人生を生きる姿だった。
普通小説の主人公は何らかの生きる動機や目標がありそれを達成させるためのストーリーがあり、それに読者は魅入られていくのだが、この主人公、いやこの作家はフランス国内にどこにでもいそうな底辺か中流階級の一般の人たちを活写し圧倒的な共感や支持を受けているのだそうだ。
人は生きていく上でどうしても人生の特別な意味や動機、ストーリーを必要とするものなのだが、そういうものが欠落している人々も多いということを示唆しているようで、自分だけではなかったのだ、という共感を生むのだと思う。
このエリートでもイケメンでもないしパッとしない影のような主人公が生きるのに必要なものは、はっきり言って、食べること、セックスすること、眠ること、少しの愛情を感じること、ただそれだけなのだ。思考能力はあり世界観も持っているが、フランスやアラブのイスラムに幻滅しており執着を持たず世界に幻想を抱いていないばかりでなく、世界がどうなってもどうでもよいと考えている。
私もじつは世界がどうなってもなるようにしかならないという考えで、肩ひじ張らず人生に執着しない生き方に、それを虚飾なくありのままにアンチ•ヒーローを描き切ったウエルベックにとても共感してしまった。
言わば赤裸々な人間の影を描写したのだ。
自分の人生は特別なのだ、特別な意味やストーリーやスピリチュアリティーがあるというのは幻想ではないのか?
そもそもストーリーとは虚構である。
自分の人生の虚構を排して客観的に見て、自分の人生は食べてセックスして眠ることだ、とありのままに主張してどこが悪いのか?と思った次第である。
普通の平凡な人間は、本当はそういうことしか考えていないのに、あたかも高次な人生や世界の深い意味を考えているふりをして、あるいはそれが存在すると錯覚して人生を生きているだけではないだろうか?
高尚な人生も最底辺の人生も生きるという基底の次元でいえば、そんなに違いはないのだ。
そして、それを認めたくないから人は虚構の世界を作って虚無に抗うのかもしれない。
人間存在に虚無があるからこそ虚構があるのではないだろうか?
虚構を取り去った人間の赤裸々な姿は、惨めだけど、それだからこそその虚無の深さに感銘を受けるのだ。