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【第8回】 スターリン批判と冷戦下のソ連衛星国の民主化およびキューバ危機

【第2次世界大戦後の「冷戦」下における「戦争」の構図】(1950年~1980年)
第8回 スターリン批判と冷戦下のソ連衛星国の民主化およびキューバ危機
第8回≪問い≫
1.テーマ:スターリン批判と中ソ対立
・スターリン批判は世界、特に中国にどのような影響を及ぼしたか?
3.テーマ:「ベルリンの壁」とキューバ危機
・「ベルリンの壁」とキューバ危機は世界にどのような影響を与えたか?
2.テーマ:ソ連のチェコ侵攻とブレジネフドクトリン
・スターリン批判は東欧にどのような影響を及ぼしたか?

≪問題提起≫
1.スターリン批判は世界、特に中国にどのような影響を及ぼしたか?
1953年のスターリンの死は朝鮮戦争を休戦協定に導き、ジュネーブでの初の米英仏ソの4巨頭会議により東西冷戦の緩和が模索された。1956年のソ連共産党20回大会でのフルシチョフによるスターリン批判は、バンドン会議にも刺激されて1959年の米ソ首脳会談を実現させ、米ソの緊張緩和に道を開いた。
またスターリン批判の影響は東欧の自由化を要求する運動となり、もう一方では中国共産党の毛沢東らがソ連を修正主義と激しく攻撃して中ソ対立が激化した。中国ではスターリンの思想と実践は真理として定着しており、スターリンの個人崇拝批判は毛沢東崇拝批判に通じ、平和共存路線はアメリカを助ける利敵行為と映った。1958年から始まった「大躍進」政策の失敗とソ連との関係悪化は、中国経済をどん底まで突き落とし、毛沢東は主席を辞任し、劉少奇・鄧小平らの調整政策が党内で大きく支持を得た。毛沢東が掲げた文化大革命の本質はソ連派幹部の排除を目指す奪権闘争であった。「造反有理」「継続革命論」のスローガンは妬み、嫉みの横行を許し、破壊と殺戮が続いて、中国は経済的にも文化的にも大きく後退した。毛沢東の死後、復権した鄧小平は1978年に改革開放政策を打ち出し、社会主義経済からの転換を図った。   

2.「ベルリンの壁」とキューバ危機は世界にどのような影響を与えたか?
戦時中ソ連に亡命していたドイツ人共産主義者はことごとく粛清され、強固なソ連派だけの東ドイツ政府は農業集団化と企業の没収を強行した。1953年に政治体制への大規模な反乱がおきたが、ソ連軍によって鎮圧された。国境が固められた後もベルリン経由で西ドイツへ逃れる人が続出したために1961年に「壁」が建設された。1953年に「一揆」が無駄なことを思い知らされ、「壁」によって逃亡も極めて困難になり、人々は東ドイツと折り合いをつけて暮らすことを余儀なくされた。冷戦によって分断したドイツが統一するまでにはこの後30年の時を要した。
一方、冷戦は核戦争という人類の危機を招いた。1959年にキューバ革命が成功し、農地改革およびアメリカ企業の所有する農地を没収したことでアメリカが反発、砂糖の輸入停止措置に続いて国交を断絶した。さらには亡命キューバ人を使って革命政権の転覆を謀り、経済封鎖を通告した。キューバをソ連は砂糖の輸入で支援し、カストロはソ連が核ミサイルをキューバに配置することを了承した。1962年ソ連がキューバに核ミサイル基地を建設していることを発見したアメリカはカリブ海でキューバの海上封鎖を実施し、米ソの核戦争の危機が迫った。米ソ両国首脳の直接交渉で危機は回避され、この後米ソ間にホットラインが引かれた。 

3.スターリン批判は東欧にどのような影響を及ぼしたか?
スターリン批判の影響は東欧の自由化を要求する運動となり、1956年ポーランドで反ソ暴動が起き、ソ連により排除されていたゴムウカを復権させた。しかし、同時期に起きたハンガリーの反ソ暴動は、ワルシャワ条約機構からの離脱を通告したために徹底的に粉砕され、数十万の犠牲者を出した。ソ連の軍事的介入は「社会主義共同体の利益は一国の利益に優先する」というブレジネフ=ドクトリンによって正当化された。
チェコスロヴァキアでは1960年代に入ると共産党の内部でも「改革派」が急速に台頭した。1968年1月ドゥプチェクが党第一書記に就任して「人間の顔をした社会主義」を掲げ、「プラハの春」と言われた改革を実行し、文化人が「二千語宣言」を発表してドゥプチェク路線を強く支持した。「プラハの春」の動きに対して、ソ連のブレジネフ政権は介入を決意し、1968年8月20日深夜ワルシャワ条約機構軍15万がチェコスロヴァキアに侵攻し、共産党本部を襲撃してドゥプチェクらを逮捕した。人々は戦車の前に抗議のデモで抵抗し、地下放送で対抗した。しかしドゥプチェクらはついに屈服し「プラハの春」は押しつぶされ、ソ連寄りの政権がとって代わった。
ブレジネフドクトリンによる武力弾圧は、世界に社会主義忌避を決定づけ、その後のゴルバチョフ改革とソ連解体の遠因になった。

写真:ソ連のチェコ侵攻(1968年8月進行するソ連軍兵士に抗議するプラハ市民)


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