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【第9回】アメリカのベトナム戦争、日本の沖縄返還運動、ソ連のアフガニスタン侵攻 

【第2次世界大戦後の「冷戦」下における「戦争」の構図】(1950年~1980年)
【第9回】アメリカのベトナム戦争、日本の沖縄返還運動、ソ連のアフガニスタン侵攻 
第9回≪問い≫
1.テーマ:米国によるベトナム戦争の敗北とベトナム統一の実現
・アジアにおける第2の熱戦はなぜ始まり、どのような結末を迎えたか?
2. テーマ:日本の沖縄返還実現と日韓・日中関係の正常化
・沖縄の日本復帰、日韓・日中の国交回復にはどのような問題が残されたか?
3.テーマ:ソ連によるアフガン戦争とその結末
・ソ連によるアフガン侵攻は両国のその後にどのような問題を生み出したか?

≪問題提起≫
1.アジアにおける第2の熱戦はなぜ始まり、どのような結末を迎えたか?
フランス植民地であったインドシナでは、日本の敗戦直後にベトナム民主共和国の独立を宣言したが、フランスは旧宗主国としてインドシナの再支配を狙い、ベトナム独立同盟(ベトミン)軍と交戦し、インドシナを巡る戦争に発展した。この戦争は、フランス軍の撤退とベトナムを南北分断するジュネーブ協定によって終結したが(第1次戦争)、その後のアメリカのベトナム戦争への介入(第2次戦争)、中国のベトナム侵攻、ベトナムのラオス・カンボジア介入戦争(第3次戦争)の終結まで実に45年にわたるインドシナ戦争を引き起した。
アメリカは、中国革命がベトナムを経由して東南アジア全域に共産化が及ぶとのドミノ理論のもとにベトナムへの軍事介入を開始、トンキン湾事件を捏造し、宣戦布告をせずに北ベトナム側への空爆と地上戦を開始し、ベトナム支援ルートのカンボジア・ラオスへの侵攻によりインドシナ全域に跨る戦争となった。アメリカはパリ協定で完全撤退を余儀なくされベトナムは南北統一を実現した。
東南アジア条約機構の解体を契機に、アメリカ・ソ連・中国の大国支配から離れて、東南アジア諸国連合の発足を通じて、戦争回避の枠組みとしてEU連合をモデルとした各国の多様性を活かした独自の経済圏づくりに取り組んだ。 
                  
2.沖縄の日本復帰、日韓・日中の国交回復にはどのような問題が残されたか?
講和条約で沖縄の施政権を持ったアメリカは、住民の帰還を認めず、ハーグ陸戦法規を盾に使用料未払いのまま、軍事基地を建設した。土地接収を不服とした地主会が、米国の「プライス勧告」に対して「島ぐるみ闘争」を組織し、平和憲法下の日本に復帰する運動を担った。沖縄の日本復帰は、実現したものの、日米安保条約の強化と密約による沖縄への核持ち込み、軍事基地の存続を前提とする祖国復帰となった。
対韓国では、軍事クーデタで成立した朴正煕政権との間で日韓基本条約を締結し、国交を正常化した。しかし、その後、竹島の領有権とともに、「慰安婦」補償、「徴用工」補償など植民地支配の清算に向き合う交渉とはならず、今日まで続く日韓関係混迷の要因となった。
北朝鮮とは、韓国を朝鮮の唯一の合法政権とする日韓基本条約のために断絶し、朝鮮戦争後の交戦状態にある米国への軍事基地の提供で未だに国交正常化に至っていない。
対中国では、講和条約締結後、台湾との日華平和条約の締結で関係が悪化し、日米共同声明による台湾条項などの中国敵視の姿勢を続けたが、ニクソン訪米を契機に国交正常化を実現した。しかし、棚上げしたガス田開発も絡む尖閣諸島の帰属権問題は、日本の国有化、中国の南シナ海、西太平洋への進出、台湾統一などで緊張を高めた。   

3.ソ連によるアフガン侵攻は両国のその後にどのような問題を生み出したか?
アフガニスタン(以下アフガン)は18世紀中葉にタジク人、ウズベク人、パシュトーン人、ペルシャ人が混在する内陸国として、インドを植民地化したイギリスとの二度にわたるアフガン戦争を経て建国された。イギリスは、パンジャブの小麦収奪を優先し、スレイマン山脈に国境線を策定し、同山脈東西に定住するパシュトーン人を分断し、その後パキスタンは対インド洋交易ルートを遮断した。アフガンはパシュトーン人の土地の回復を目的にした第3次アフガン戦争に敗北し、現在の国境線の承認によって独立した。
アフガンはインド洋交易ルートを巡るパキスタンとの紛争への対処としてソ連との経済協力を強め、軍事の近代化を進めた。しかし、憲法改正と選挙・議会制度の導入による民主化は議会と内閣との対立で政情の不安定化を招いた。クーデターで王制を廃し共和制を導入した大統領の下、独裁体制で進めた急速な社会主義化が国内外からの離反を招いた。
ソ連からの離脱と米国への支援を打診する動きを察知したソ連は、「ソ連アフガン友好善隣条約」を盾にソ連軍を投入し、カブールを制圧した。10年に及ぶアフガン戦争は、米ソ対立の様相を呈し、多数の難民を生み出し、アメリカの反ソゲリラ・ムジャヒディン勢力への軍事支援によって、国際テロ組織が暗躍する舞台を提供し、ソ連は国家財政の破綻によるソ連邦解体に至る遠因となった。

写真:ベトナム戦争(「安全への逃避」1965年9月6日ビエンディエン県クイニン北20キロ)


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