松平元康家臣団辞典
【あ】
青木俊成【あおきとしなり(15??~15??)】
青山忠世の四男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
青山忠世【あおやまただよ(14??~1536)】
松平長親家臣。青山長光の男。通称金兵衛。1508年、「三河岩津城の戦い」で松平長親の意向を受け今川氏親の家臣伊勢盛時勢と戦い戦功を挙げた。1536年、「三河岡崎城の戦い」で松平広忠に従い松平信定勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
青山忠門【あおやまただかど(1518~1571)】
青山忠世の男。通称藤右衛門。別名青山忠義。1548年、「第二次小豆坂の戦い」で松平広忠に従い織田信秀勢と戦い戦功を挙げた。1560年、「桶狭間の戦い」で松平元康に従い織田信長勢と戦い敗退した。1563年、「三河一向一揆」で松平元康に従い岡崎城を守備した。1571年、「二連木城の戦い」で松平元康に従い武田晴信勢と戦い戦傷を負い病没した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
青山重成【あおやましげなり(1521~1581)】
青山忠世の次男。通称惣右衛門。室は小林又左衛門の娘。1548年、「第二次小豆坂の戦い」で兄の青山忠門とともに松平広忠に従い織田信秀勢と戦い戦功を挙げた。1560年、「桶狭間の戦い」で青山忠門とともに松平元康に従い織田信長勢と戦い敗退した。1563年、「三河一向一揆」で青山忠門とともに松平元康に従い一向一揆衆と戦い戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
青山正長【あおやままさなが(1549~1607)】
青山重成の男。通称善左衛門。室は大久保忠益の娘。1572年、「三方ヶ原の戦い」で松平元康に従い武田晴信勢と戦い敗退した。1575年、「長篠、設楽ヶ原の戦い」で松平元康に従い武田勝頼勢と戦い戦功を挙げた。1584年、「小牧、長久手の戦い」で松平元康に従い羽柴秀吉勢と戦い戦功を挙げた。1600年、「第二次上田城の戦い」で松平秀忠に従い真田昌幸勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
青山重長【あおやましげなが(1578~1639)】
青山正長の男。通称善四郎。1590年、「小田原城の戦い」で羽柴秀吉に属した松平元康に従い北条氏直勢と戦い戦功を挙げた。1600年、「第二次上田城の戦い」で松平秀忠に従い真田昌幸勢と戦い戦功を挙げた。1615年、「天王寺、岡山の戦い」で松平元康に従い羽柴秀頼勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
青山重勝【あおきしげかつ(15??~1654)】
青山重長の養子。通称源右衛門。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
青山利政【あおきとしまさ(15??~15??)】
青山正成の男(青山重長の養子)。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
青山盛長【あおやまもりしげ(15??~1685)】
青山重勝の男(青山重長の養子)。通称善左衛門。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
青山重次【あおやましげつぐ(15??~1619)】
青山重成の次男。通称又六郎。別名小林重次。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
青山正成【あおやままさなり(15??~15??)】
青山重成の三男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
青山忠重【あおやまただしげ(1525~1571)】
青山忠世の三男。通称牛之助。1560年、「桶狭間の戦い」で松平元康に従い織田信長勢と戦い敗退した。1563年、「三河一向一揆」で松平元康に従い一向一揆衆と戦い戦功を挙げた。1570年、「近江姉川の戦い」で織田信長に属した松平元康に従い朝倉義景、浅井長政勢と戦い戦功を挙げた。1572年、「二連木城の戦い」で松平元康に従い武田晴信勢と戦い討死した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
青山成重【あおやまなりしげ(1549~1615)】
服部正信の次男(青山忠重の養子)。通称七右衛門。別名服部忠頼。室は恒岡常自の娘。1571年、青山忠重の養子を務めた。1584年、兄の服部正尚の推挙を受け松平秀忠に仕えた。下総飯田城(10,000石)を領した。1613年、「大久保長安事件」で連座して下総国香取郡に減封処分(7,000石)に処された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
青山忠成【あおやまただなり(1551~1613)】
青山忠門の男。官途は播磨守。室は天方通興の娘。1572年、「二連木城の戦い」で松平元康に従い武田晴信勢と戦い討死したため、青山家の家督を相続した。1585年、松平秀忠の傅役を務めた。1590年、松平元康に従い関東に転封して江戸街奉行職(5,000石)を務めた。1600年、「第二次上田城の戦い」で松平秀忠に従い真田昌幸勢と戦い戦功を挙げた。1601年、常陸江戸崎城(15,000石)を領した。本多正信、内藤清成とともに老中職を務めた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
青山忠次【あおやまただつぐ(1577~1595)】
青山忠成の男。家督を継ぐ前に天然痘で病没した。家督は次弟青山忠俊が継承した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
青山忠俊【あおやまただとし(1578~1643)】
青山忠成の次男。官途は伯耆守。通称藤五郎。室は大久保忠佐の娘。1590年、「小田原城の戦い」で松平元康に従い北条氏直勢と戦い戦功を挙げた。兄の青山忠次が病没したため、青山家の家督を相続した。1600年、「関ヶ原の役」で松平元康に従い石田三成勢と戦い戦功を挙げた。1607年、土井利勝、酒井忠世とともに松平家光の傅役を務めた。1613年、父の青山忠成が病没したため、青山家の家督を相続した。1620年、武蔵岩槻城(55,000石)を領した。1623年、松平家光に諫言を繰り返したため、老中職を免職のされ上総大多喜城(20,000石)に減封に処された。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
青山幸成【あおやまよしなり(1586~1643)】
青山忠成の四男。官途は大蔵少輔。通称石之助。室は小笠原信之の娘。1599年、松平秀忠に仕えた。1602年、下総国印旛郡内で500石を領した。1615年、「大坂夏の陣」で松平秀忠に従い羽柴秀頼勢と戦い戦功を挙げ常陸国新治郡、筑波郡内で13,000石を領した。1633年、遠江掛川城(26,000石)を領した。1635年、摂津尼崎城(50,000石)を領した。1643年、次男青山幸通(3,000石)、三男青山幸正(2,000石)、四男青山幸高(1,000石)を分与した。家督は長男青山幸利が相続して摂津尼崎城(48,000石)を領した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
青山成次【あおやまなりつぐ(1593~1639)】
青山成重の男。室は彦坂光正の娘。1613年、「大久保長安事件」に連座して父青山成重が改易処分に処された。馬廻衆(1,000石)を領した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
青山成国【あおやまなりくに(1584~1613)】
大久保長安の次男(青山成重の養子)。通称権之助。1613年、「大久保長安事件」で大久保長安に連座して自刃した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
朝岡五郎左衛門【あさおかごろうざえもん(15??~15??)】
松平家忠家臣。1575年、「鳶ヶ巣山砦の戦い」で松平家忠に従い武田勝頼の家臣河窪信実勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
阿佐美清兵衛【あさみせいべい(15??~15??)】
本多忠勝家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
麻生松平親正【あそうちかまさ(14??~15??)】
松平乗清の男。1487年、「麻生館の戦い」で松平親忠に従い天野景孝勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
麻生松平清房【あそうきよふさ(15??~15??)】
松平親正の男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
麻生松平正忠【あそうまさただ(15??~15??)】
松平清房の男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
麻生松平正勝【あそうまさかつ(15??~1615)】
松平正忠の男(松平正忠の養子)。通称助十郎。室は大久保康忠の娘。1615年、「大坂夏の陣」で青山忠俊に従いに羽柴秀頼の家臣明石全登勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
麻生松平重信【あそうしげのぶ(15??~16??)】
松平家信の次男(松平正勝の養子)。室は松平正勝の娘。1615年、「大坂夏の陣」で松平正勝が青山忠俊に従いに羽柴秀頼の家臣明石全登勢と戦い討死したため、麻生松平家の家督を相続した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
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