【掌の小説】夕波【詩】

 ある冷たく濡れた木の裸根はだかねに木樵の青年が腰を下ろした。かれの背からそこへ下ろされた竹籠が少しく湿った土をさくった。蜜柑が籠の中でごろごろと音を立てて転がった。ざあっと、風が青く、冷たく立った。
 ──草隠れの深山の沢は、打ちつけごころに流れを早めたかのように思われた。鳥が二、三そこここで羽ばたき、夥しい樹の本葉もとは末葉すえばの模糊とした影が婆娑としてかれの赤脛はだかずねの上に印した。棚曇って一面けぶったように暗がりになった。
(ああ、)
 朝から働きっぱなしのかれは、ようやっと気がついた。山が暮れようとしているのだ。一日が終わろうとしているのだ。
(ああ、寒い寒い日暮れだ。もう十分木は切ったし、たわむれに蜜柑ももいだ。一つ休もうか。……)
 夕波千鳥の騒がしさの遠のきをかれは聞いた。足下の小さい沢の流れの不遜なまでの激しさと、一日中続いている仕事の疲れのせいだった。それは心地よい魔睡と地続きであるには違いなかった。しかすがに、かれは眠りに身を任せることをひどく嫌った。籠の中の木材と蜜柑を家へ持ち帰ってからでないと眠りたがらなかった。いつもそうだった。
 なんという悲しい生真面目さだろう。彼には権利ということより、義務ということのほうが大切なのだった。
 ──やがて幻の夕波はしずまった。彼は竹籠を背負い直しながら立ち上がって、東の空の月を打ち眺めた。かれは休息する一人の「貴方任せ」の若者から、また一人の働き盛りの生真面目な木樵に戻った。
(よし、帰ろか、寒い。夜には働けん。……風邪引くといかん)

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