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【連載小説】秘するが花 6

藤若

藤若は、そこで目を覚ました。
至徳元年(一三八四年)の六月。
静かな雨が降る、たそがれ時。
今日と今夜のはざまの刹那の時。
ここは、花の御所の控えの間。
室町殿(むろまちどの)
のお召を待ちながら、 
藤若は束の間の眠りに落ちていたようだ。
父の急死の報を受けてから、
もう、幾夜も眠っていない。

夢を、いくつもの夢をみたようだ。
藤若は、長い時を、夢の中で過ごした。
しかし、醒めてみれば、
それは僅かな時間。
夢の中では、時の流れは速い。

栄華のほどは五十年。
さて夢のあいだは、
粟飯の一炊のあいだなり。

まるで「邯鄲の夢」のよう。
父の夢をみた。

わたくしは、
いや、おれは、何をしているのか。

藤若は、頬をつたう涙をぬぐった。
今の今まで、泣いていなかった。
父を亡くしたというのに、
おれは、今まで泣かなかった。
藤若は、鼻をすすりながら唇をかむ。
藤若は、母を知らない。
物心がついた頃には、
父の手で技芸を仕込まれていた。
その、たった一人の父が死んだ。
それなのに。
たった一人の父が死んでも、
藤若は泣けなかった。
今の今まで、
藤若は立会い能のことばかり考えていた。
そんな藤若が、つかの間のまどろみに、
父の夢をみた。
父の夢をみて、息子は初めて泣いた。
父は、息子に鬼夜叉と名付けた。
息子の人並外れた美貌ゆえの名だった。

「鬼夜叉は、我が一族の希望」 

 父は、息子にそう言い続けてくれた。
 父は師でもあり座長でもあった。
 その父が、旅の空の下で急死した。
 父はまだ、五十歳だった。
 
 人は死ぬと何処にいくのか。
 仏は、
 三途の川から極楽浄土へ行く
 と教える。
 神は、
 黄泉平坂から黄泉の国に行く
 と教える。
 父は、
 人は死んだら他界へ行く
 と教えてくれた。
 その他界は、現世のすぐそばにある。
 他界から子孫を見守り、
 その繫栄と勤勉を祈る。
 やがて、
 先祖代々の祖霊神と一つになって
 子孫を守り続ける。
 その他界には、
 森羅万象に宿る精霊たちもいるという。
 人は死んでも傍らにいる。
 もしも死んでも、父はお前と共にいる。
 だから、泣くな。
 
 そうだ、
 今のおれには泣いている暇はない。
 他の一座との立会い能が迫っていた。
 芸の優劣を、観客が判断する立会い能。
 その立会い能に連戦連勝した結果、
 父の一座は当代将軍の贔屓となった。
 以来、十年間。
 一座は立会い能の常勝の座となった。
 その一座の座長が、看板役者が死んだ。
 一番星が消えた。
 改めて始まる、
 一番星の座を巡る戦いの螺旋。
 藤若は新しい座長として、
 その螺旋を登らねばならない。
 藤若は微睡の前、
 亡き父が考え事をする際の
「儀式」を真似ていた。
 翁の謡を、低く詠っていたのだった。
 
 「翁」という能は
 「能にして能にあらず」
 といわれる。
 しかとした筋書もなく、
 呪文のような言葉が連なる
 儀式芸である。
 翁、
 千歳、
 三番叟
 の舞いから成る。
 天下泰平、
 国土安穏、
 五穀豊穣
 を祈る神楽が元とも言われる。
 あるいは、
 天岩戸を開いたという
 アメノウズメの舞い
 が元とも。
 あの日、
 将軍の前で父が翁を、
 当時は鬼夜叉と名乗った藤若が
 千歳を舞った。
 
 翁こそが、
 我が一座が天下に知られるきっかけ
 になった演目であった。
 絶世の美少年であったからこそ、
 父が名付けた鬼夜叉の名。
 
 その名は、藤若と改めさせられる。
 
「松が枝の
 藤の若葉に
 千歳まで
   かかれとてこそ 
 名づけそめしか」

 
 藤原氏一族の長。
 氏長者(うじのちょうじゃ)でもある
 二条関白さまに与えられた、藤若の名。
 藤若とは、
 藤氏の若者を表す。
 漂泊の民、猿楽師の子鬼夜叉は、
 貴族の中の貴族、
 藤原氏の一族に加わった。
 藤若の名は、
 本来ならば猿楽師の子に閉ざされた
 いくつもの扉を、
 開いてくれることになった。
 その夜、藤若は、関白さまによって
 将軍に献上された。

 そして、室町殿は、
 藤若の運命の人となった。

 室町殿が十六歳。
 藤若は十歳のことだった。

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