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【連載小説】秘するが花

はざまの世

 遠くに響く海鳴り。
 胸いっぱいの潮の香り。
 眼下に広がるのは大海原。
 視界に満ちる眩しい光。
 眩しさに目を閉じる。
 と、海鳴りは遠くへいきます。
 やがて、やってきた。
 耳鳴りがしそうなほどの沈黙。
 その沈黙の向こうから、
 謡が聞こえてきます。
 
  とうどうたらり
  たらりら
  たらりあがり 
  ららりどう
  ちりやたらり 
  らたらりら
  たらりあがり 
  ららりどう
  所千代まで
  おはしませ
  われらも千秋 
  さむらはふ
  鶴と亀の齢にて 
  幸ひ心
  任せたり
  とうどうたらり
  たらりら
  たらりあがり
  ららりとう
  ちりやたらりら
  たらりあがり 
  ららりとう
 
 再び、開いた視界には、
 蝶が舞っておりました。
 ひらりひらひら、舞う胡蝶。
 ふと、胡蝶の姿が光に紛れてしまう。
 
 光はどんどん強まって、
 眩い光に何も見えない。
 閉じた瞼が赤く染まる。
 やがてその光が、
 遠のいていくのを感じます。
 
 開いたわたくしの眼の前に、
 狐の面がありました。
 狐面は、ぽっかり二つ。
 狐の面は青と赤。
 宙に浮かんでおりました。
 わたくしは急速に覚醒します。
 視覚が。
 聴覚が。
 恐ろしいほど、すっきりします。
 眼前の二つの狐面は遠ざかる。
 周囲の様子が見えてきます。
 見渡す限り、眩しく輝く光の壁。
「夢か。此処は夢の世界なのか」
「ここは、はざまの世」
 青と赤の狐面。
 どちらがどちらの狐面の言葉やら。
 ここが、はざまの世。
 父から聞いたことが、ありました。
 現世と幽世のはざま、他界。
 あ。
 わたくしは、死んだのか。
 小さな違和感。
 たしかに、面は二つだけか?
 そんなわたくしの思考を遮って、
 狐面の言葉が聞こえます。
 狐面の声は、くぐもることなく
 聞こえます。
 まるで、わたくしの頭の中に、
 直接飛び込んでくるかのよう。
「夢と現の、はざまの世」
「過去と未来の、はざまの世」
 狐面は繰り返し、わたくしは、
 狐面の声を遮ってみます。
「わたくしは、
 死んでしまったのでしょうか?」
 狐面は、まるで笑ったように
 見えました。
「お前は選ばれた」
 どうやら、これは、青の狐面。
「お前が、選ばれた」
 そして、これは、赤の狐面。
 四方を見渡すと、白く眩いこの世界。
 天井も床面も四角形。
 周囲は白く輝く世界。
 光に満ちた立方体。
 この世界の光源は地面。
 地は眩ゆいばかりに輝いて、
 光は見上げる上方にまで
 淡く達しています。
 しかし、その天井の一つ隅には
 真っ暗闇。
 三間四方の四角形の一方だけが、
 黒い闇がうずくまる。
 床面の輝きの全てを
 吸収するかのような、黒い闇。
 あの暗闇は、この世界の出入口なのか。
 三間四方の四角い空間。
 その一方にある出入口。
 下を見る。
 と、あるはずのわたくしの身体が
 ありません。
 眩しいほどに、輝く地面。
 地面の輝きに、影さえも見えません。
 上を向いて目を凝らす。
 と、あ。
 淡く輝く天井に、
 まあるい影がぼんやりと映っています。
 青狐面の影と、赤狐面の影。
 そして、他にも二つの影が。
 どうやら、四つの面が、
 此処にはいます。
 見回すと、面たちの後ろの白い壁には、
 無数の窓があるようです。
 いや。
 白い壁は、窓というよりも、
 無数の格子からなっています。
 無数の格子の向こうには、
 それぞれに、別の世界があるようです。
 四方の白い壁にある、
 無数の格子の向こうの世界。
 あれらもまた、それぞれが、
 はざまの世。
 さらにさらに、よくよく見る。
 と、無数の格子の各壁から、
 わたくしが今いる場所が
 異なる角度で見えることに
 気づきました。
 まるで誰かが、この世界を
 ふたたび組み立て直したようです。
 様々な光の格子が、この世界が、
 幾重にも幾重にも。
 おそらくは無限に
 反復しているようです。
 無限に反復する世界の一つが、
 今、わたくしがいる世界。

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