なにごとの おはしますかは 知らねども
人は死んで「無」にはならない。
あの美しい日々が、
懸命に生きたその果てが
「無」であるべきではない。
ほんとうのことは、わからないだろう。
だったら、自分にとって、
「都合のいい」答えを選べば良い。
人は死んで魂魄になる。
そして、その魂魄は「はざまの世」から
遺された者たちを大切な人たちを見守る。
なにごとの おはしますかは 知らねども
かたじけなさに 涙こぼるる
僧侶である西行法師が
伊勢神宮で感じた「なにごと」とは
仏である大日如来はなく、
神である天照大神であったろうし、
「なにごとかがおはします」
と感じ取った感覚は
「臨在感」
(目には見えないけれど何か居る気配を感じる)
であったのかもしれない。
秘するが花
日本人は、死ねば「この世」から
遥か彼方の「あの世」ではなく「他界」に行く。
そんな古来の日本人の死生観を知った時に
想い浮かべた場所があった。
それは能舞台の「橋掛り」だった。
「生者と死者の邂逅」
「死者への鎮魂歌であり、生者への生命賛歌」
ともされる能楽は
「この世」に出張った「三軒四方」と呼ばれる能舞台と
「この世ではない場所」である幕裏を結ぶ
「橋掛り」で舞われる。
「橋掛り」は「花道」であり「舞台」でもある。
いわば、「この世」と「あの世」のはざまにある
「はざまの世」とでもいえようか。
死んだら何処に行くのかの
答えのひとつが「他界=はざまの世」であることは、
多くの日本人にとって、
「都合のいい」ことであったと思う。
そして、「この世」を去って「はざまの世」へと
居場所を変えるのが、自分の魂魄なのだろう。