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14.おそよさん不在


『稿本天理教教祖伝』p4
いつも加持台になるそよを迎えにやったが、あいにくと不在であった。やむなく、みきに御幣を持たせ、一心こめての祈祷最中に、
「みきを神のやしろに貰い受けたい。」
との、啓示となったのである。
(第一章 月日のやしろ)


「歴史の考察」というのは、史実一点を見つめても、中々分からないことが多い。
 その前は、どんな状態だったのか。その後はどうなったのか、などといった前後の背景も丹念に調べ、文脈から史実を捉えることによって、より深く意味合いを理解することができるだろう。

 これから思案していきたい「貧のどん底の道すがら」も、そうかも知れない。
 教祖はなぜ、わざわざ貧に落ちきられたのか。それは、現代を生きる私たちにとって、どういったひながたなのか。
 この神意を探求する上で、貧に落ち切られたことだけに焦点を当てるのではなく、前提として、立教以前の道すがらから、じっくりと思案していきたい。これは、 「貧のどん底の道すがら」の意味を、より深く悟らせて頂く為の大切な行程であろう。

  ◆

 ということで、これから数回にわたり、月日のやしろとなられる以前の教祖について考察を進めていく。

 ご幼少から40歳まで、人間として生きられた教祖は、どんなお人柄だったのか。周りの方々からは、どんな風に思われていたのか。個人的には、大変興味のある分野である。

 ところが、これを調べるのは中々容易ではない。史料があまりにも少ないからである。

 教祖の幼い頃は、周りの人々にとってみれば、ただの百姓家の娘にすぎない。
「このお方は将来、神様のやしろになる」なんてことが分かっていれば、教祖の一挙手一投足を記録したであろうが、当時にそんなこと分かるはずがない。残っている記録が少ないのは、むしろ当然といえよう。
 ただ、あまりにもお心の素晴らしいお方であったので、その人並みはずれたご行動のいくつかは話として伝わっている(『教祖伝』「第二章 生い立ち」参照)。それでも 40年という長い年月にして、たった数個の史実しか伝えられていないのである。
 立教以前の教祖は、どんなお人柄だったのか。それは「ほとんど分からない」という事実を、私たちは受け入れなければならないだろう。

 限られた資料の中から、想像を膨らますより他ないのである。


  ◆


 そうした中、冒頭にあげた教祖伝の一文は、教祖のお人柄を窺える貴重な一節ではないかと思った。
 あまりにもサラっと記されている為、何の疑問も抱くことなく読み流してしまいそうだが、よくよく考えてみれば、とても不思議な一文である。

 当時、秀司先生の足痛を抑える為に、幾度か寄加持を行っていた。
「寄加持」とは、ごくごく簡単にいうと、沢山の人を集め、その中に一人加持台を置き、祈祷者が祈祷をすると、その加持台に神様が降りてきて、神秘的なことを口走る、というものである。


 ところが、この神憑り状態になる加持台は、誰でも良いという訳ではない。心の清らかな、未だ男を知らない処女でなければならないという鉄則があるのだ。そこらへんの人に、パッと頼むという訳にはいかないらしい。
 だから、修験者にとって加持台は、その時々によってコロコロ変わるものではなく、大体いつも決まった人。中野市兵衛さんにとっては、勾田村のおそよさんがお得意さんだったようである。

 しかしその時は、おそよさんが不在だった。市兵衛さんは、さぞ困惑したことだろう。
 沢山の人も集まっているし、今さら中止する訳にはいかない。そこでやむなく、教祖に加持台になって貰おうということになったのだ。
 ご承知の通り、教祖は当時既婚者である。子供もお生みになっている。それなのになぜ、市兵衛さんは、教祖に加持台を任せようと思われたのか。
 現代の私たちに、その真相を知る由もない。が、ここで想像できることは、それほど教祖の信頼が篤かったということではないだろうか。
 本来の鉄則を飛び越えてまで、「このお方なら大丈夫」と思わせしめる心の清らかさが、市兵衛さんの目に映っていたのでないかと想像するのだ。


 もちろん、神様の目線から言えば、魂のいんねんや旬刻限の到来から、元の神様が天降られる準備として、教祖が加持台になることは必然だったのかも知れない。
 しかし一方で、人間の情から見るならば、教祖が加持台に選ばれている事実は、普段から如何に、人々に信頼されていたかを物語っているようにも思うのである。


  ◆


 こんな感じで、全く私の偏見と憶測にすぎないが、しばらく、人間としての教祖のお人柄を想像していきたい。
 教祖のひながたは、厳密にいうと、立教以後の五十年間の道すがらをいう。これは今更論ずるまでもないが、では、立教以前の教祖は、どのように捉えたら良いのか。

「こうき話」には、こんな一節がある。

……この度、天輪王命と名を授けたのは、当年八十六歳になる中山みき、この者、前部にある通り、若い時より、ただ、人をたすける心一条の者、この心を月日しかと受け取り見澄ませ、この者の魂というは、いざなみの命の魂を生まれさせおきたこと故、四十六年以前に天降り、身内を月日の社に貰い受け、心を天理に叶うた故に、みきの代わりに、この屋敷に、天輪王命と名を授け……

※太字筆者。「十六年本 神の古記」を読みやすく修正した。
(原文は『こうきの研究』125-126頁)

 また、近所の子を預かり、黒疱瘡をおたすけなさった出来事について、おさしづでも次のように説かれている。

……我が子まで亡くなって救けた人の心、これが天の理に適い、……
(明治三十二年二月二日 夜)

 立教以前の教祖のお心も、人をたすける一条の心、天の理に適うお心であったといわれている。

 私たちが、立教以前の教祖のお人柄を求め、お慕いし、そこから学ばせて頂くことも、何ら神意に背く行為ではないだろう。否、むしろ、天の理に適う心を目指すには、とても大切なことなのかもしれない。

 ただ、先に申したように、史料があまりにも少ない為、確固たる事実を突き詰めることは難しい。どれだけ考察しようとも、所詮、想像の域を越えないのである。

 なので、 「あくまで私の憶測である」ということをしっかり踏まえた上で、これからしばらく、立教以前の教祖のお人柄を掘り下げてみたいと思う。

R184.6.1

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