(一)序【所詮憶測】

 

 本科在学時代、同級生の鈴木寿男君が『本研新聞』なるものを発刊してくれました。
 以来、草創期から「おさしづに親しむ」を連載させていただきましたが、後輩の大瀬裕太君が、その紙面を譲り受けてくれたので、私も新しい呟きをはじめようと思います。


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 内容は、京都の伝道史について。

 なんだー。京都の伝道史かー。あんまり興味ないなー。
 自分には関係ないしー。


 なんて思わないでください。

 京都の伝道史を取り上げるのは、あくまでツールであって、私がこれから考えていきたいことは、歴史の捉え方なのです。


 歴史を学ぶということは、どういうことだろう。史料は、どのように読み取れば良いのだろう。みたいなことを、皆さんと一緒に考えていきたいと思います。
 その題材として、京都の伝道史を取り上げるまでです。


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「歴史」ということを、私なりに二つに分類してみました。


 一つ目は、事実としての歴史

 誰々は、何年に、どういう立場についた。など、記録が正しければ、疑いようのない事実のことです。


 二つ目は、憶測としての歴史

 誰々は、どういう立場になった時、こんな気持ちだったのではないか。あの人は、この人のことを、こんな風に思っていたのではないか。

など、感情や関係性、雰囲気といった、決して真相は分からないような歴史です。

 もちろん、想像することはできます。
 記録や史料をもとに、ある程度理解することは可能でしょうが、最後の最後は断定することができません。タイムマシンに乗って、当時の情景を目の当たりにしたり、本人に聞いてみないと分からないような、「所詮憶測」としての歴史です。


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 前者は、たくさん勉強して、知識を身につけ、記憶すればいいでしょう。

 でも後者の場合は、情報をもとに、いろいろ思考しなければいけません。感性や想像力が必要になってきます。

 信仰を求めているからでしょうか。個人的には、後者の歴史に大変興味があります。

 どれほど追及しようとも、最後の最後まで確信を持つことが出来ない、という歯がゆさは残りますが、信仰を求めるお互いにとっては、後者のような歴史考察態度が、教史を学ぶ醍醐味ではないでしょうか。
 

  ◆


 そんなことを考えながら、これから気楽に呟いていこうと思います。

 おそらく、好き勝手なことを述べます。過激な発言もあるでしょうし、「それは違うだろう」と思われるようなこともあるかも知れません。

 しかし、大前提は「所詮憶測」だということです。自分自身も、その態度を忘れないために、タイトルとさせて頂きました。

 これからどうぞ、気楽に一つ、私の憶測にお付き合いくださいませ。

(つづく)


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あばかれざる京都伝道の真相を突き詰める。消えてしまった歴史。隠された歴史を掘り起こす。所詮、私の憶測であるが。いま、私たちが手に取れる資料…

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