(一)序【所詮憶測】
本科在学時代、同級生の鈴木寿男君が『本研新聞』なるものを発刊してくれました。
以来、草創期から「おさしづに親しむ」を連載させていただきましたが、後輩の大瀬裕太君が、その紙面を譲り受けてくれたので、私も新しい呟きをはじめようと思います。
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内容は、京都の伝道史について。
なんだー。京都の伝道史かー。あんまり興味ないなー。
自分には関係ないしー。
なんて思わないでください。
京都の伝道史を取り上げるのは、あくまでツールであって、私がこれから考えていきたいことは、歴史の捉え方なのです。
歴史を学ぶということは、どういうことだろう。史料は、どのように読み取れば良いのだろう。みたいなことを、皆さんと一緒に考えていきたいと思います。
その題材として、京都の伝道史を取り上げるまでです。
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「歴史」ということを、私なりに二つに分類してみました。
一つ目は、事実としての歴史。
誰々は、何年に、どういう立場についた。など、記録が正しければ、疑いようのない事実のことです。
二つ目は、憶測としての歴史。
誰々は、どういう立場になった時、こんな気持ちだったのではないか。あの人は、この人のことを、こんな風に思っていたのではないか。
など、感情や関係性、雰囲気といった、決して真相は分からないような歴史です。
もちろん、想像することはできます。
記録や史料をもとに、ある程度理解することは可能でしょうが、最後の最後は断定することができません。タイムマシンに乗って、当時の情景を目の当たりにしたり、本人に聞いてみないと分からないような、「所詮憶測」としての歴史です。
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前者は、たくさん勉強して、知識を身につけ、記憶すればいいでしょう。
でも後者の場合は、情報をもとに、いろいろ思考しなければいけません。感性や想像力が必要になってきます。
信仰を求めているからでしょうか。個人的には、後者の歴史に大変興味があります。
どれほど追及しようとも、最後の最後まで確信を持つことが出来ない、という歯がゆさは残りますが、信仰を求めるお互いにとっては、後者のような歴史考察態度が、教史を学ぶ醍醐味ではないでしょうか。
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そんなことを考えながら、これから気楽に呟いていこうと思います。
おそらく、好き勝手なことを述べます。過激な発言もあるでしょうし、「それは違うだろう」と思われるようなこともあるかも知れません。
しかし、大前提は「所詮憶測」だということです。自分自身も、その態度を忘れないために、タイトルとさせて頂きました。
これからどうぞ、気楽に一つ、私の憶測にお付き合いくださいませ。
(つづく)
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所詮憶測(京都の伝道史)
あばかれざる京都伝道の真相を突き詰める。消えてしまった歴史。隠された歴史を掘り起こす。所詮、私の憶測であるが。いま、私たちが手に取れる資料…
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