25.善兵衞様の御決断
教会長の理のお許しを戴いて、はや半年が経ちます(令和5年7月現在)。
まだまだ分からないことだらけ。毎年この時期なりますと、県庁への提出書類、役員名簿や決算書、財産目録等を作成しなければなりませんが、その書き方一つ戸惑っており、勉強したり先生方に聞いたり、苦戦している毎日です。
書類作成の為、教会内の資料を整理していますと、ふと父の青年会時代のねりあいシートが目に留まりました。教会で住み込み青年をしていた頃です。
「毎日どんな仕事をしていますか」
という設問に対し
「雑用」
と記しており、それに打消し線を引いて
「青年づとめ」
と書き直してありました。
毎日雑用している、という気持ちが本音だったのでしょうが「いや、伏せ込みなんだ」と思い改めた経緯が想像でき、クスッと頬がゆるみました。
続いて「好きなお道の言葉は」という質問に対しては「阿呆は神の望み」と記していました。そして「損得を考えず人のためにバカになってつとめる姿は感動的であり夢を感じる」と書いてあったのです。
◆
昨年7月、父が交通事故で出直してから丸一年になります。
未だに毎晩、父の人生について考えない夜はありません。一見いろいろ派手なことをやっていたようにも思えますが、改めて父の毎日を思い返すと、ずっと伏せ込みで、ずっと雑用のような人生だったなと思うのです。
下積みばかりしている父の背中を見ていて、子どもながら私は「でもきっと、これが先で結構な姿を見せて頂けるのだろう」と、父の通り方を信じていました。
ところが、突如出直してしまったのです。
正直私は、話が違うではないかと思ってしまいました。いろんな先生方から「伏せ込みは大切」とか「今しっかり伏せ込むことで先は云々……」と聞かせて貰っていたのに、全然違ったではありませんか。
真面目に伏せ込んで、ずっと下積みだった、なんとも地味な一生。親の言う通り素直に通ってきた父の人生は、一体なんだったのだろうという考えが、どうしても湧いてしまうのです。
◆
そうした中、ある本を読んでいますと、一節の文章が心に突き刺さりました。胸がいっぱいになり号泣してしまったのです。
その本とは、諸井政一著『正文遺韻』です。「道すがら外篇」の「善兵衞様の御決断」と題が付けられた一節です。僭越ながら引用させて頂きます。
もちろん、善兵衞様と父を重ねて考えることはできません。立場等あまりにも違うので、比べて思案することすらおこがましいですが、善兵衞様の道すがらを想う時、神様の思召とは、私たちの測り知れないところにあるのだろう、ということを感じました。
確かに善兵衞様は、たすけて貰った経験もなく、財産一切を無くしたらたすけ一条で通れるという証拠を見せて貰った訳でもありません。貧乏に落ちきったら三千世界たすけさすと仰っても、貧乏に落ちきる前に出直されましたので、一人も道の理でたすかる姿を見ていません。
私はこの文章を読んで、何か神様の思召を理解した訳でも、得心できた訳でもありませんが、なんとなく、神様の親心とはきっと、私たちの測り知れない大きな世界にあるのだろう、ということを感じました。
この「分からないなりにきっと」という神様への信頼が、とても勇気を頂けたように思います。
とはいえ、現在の私の実生活は、裕福とは言えないながらも家族は皆、何不自由なく元気に暮らせていますし、教会にも有難い姿を次々お見せ下さっています。これは間違いなく、父の伏せ込みのお陰です。
損得考えず目の前の御用を馬鹿正直に努めてきてくれた、父の尊い雑用のお陰だと、ひしひし実感するのです。
このたび県庁へ提出する財産目録には一切記入されませんが、そうした父の伏せ込みの種が、我が教会の何よりの財産なのだと改めて確認致しました。
一方の私はというと、目先の成果に捉われがちで、損得を計算しないと動けない質でございます。こうした期に今一度、父の背中を見つめ直し、 「阿呆」になって伏せ込みの本義を全うしたいと存じます。
善兵衞様のひながた、とでも申しましょうか。先人の道すがらには底知れぬ勇気を頂きます。最後に、先に引用した『正文遺韻』の続きを載せて、稿を閉じさせて頂きます。
R186.7.1
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