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12.おふでさき執筆年代

 
 今回は、ちょっと変わった視点でおふでさきを眺め、教祖のひながたについて思案してみたい。


 おふでさきのお歌、一つ一つを読み深めていくのではなく、いつ頃、どれほどのお歌をお書きになったのかという執筆年代に着目して、そこから学ばせて頂くことはないかを考えてみる。


   ◆


『稿本天理教教祖伝』の 「第六章 ぢば定め」の冒頭に、

教祖は、親神の思召のまにまに、明治二年正月から筆を執って、親心の真実を書き誌された。これ後日のおふでさきと呼ぶものである。 (103頁)


と記されているように、おふでさきは、明治二年から十五年まで、およそ14年間の歳月をかけてご執筆下さったと考えられる。


 ところが、どうやらその間は、順々に万遍なくお歌を記された訳ではないらしい。執筆年代を調べてみると、年代毎にばらつきが見られる。

 『千読』のように、毎月一号 12ページずつ、同じ頻度で同じだけの量を書かれたというのではなく、実は、非常に偏っていることを発見するのである。

 執筆時期がはっきり分からないお歌も多いが、それぞれざっくりと、号別に歌数と執筆時期をまとめると、次のような表になる。

執筆年代とおふでさき2


 特徴的なのは、明治7年と明治8年が非常に多い点であろう。
 第三号から第六号半ばまでが明治7年、 第六号半ばから第十二号初めの2首までが明治8年 (『教祖伝』126頁)のご執筆である。
 歌数でいうと、明治7年は500首以上、明治8年は400首以上にのぼる。この2カ年で、900首を超えるお歌が記されている。
 全部で1700首ほどのお歌を、14年間かけてご執筆下されたとはいえ、実は半分以上が、明治7年と明治8年に記されているのである。

 さて、こうした偏りは、どのように考えたら良いのだろうか。明治7年、8年とは、一体どのような年だったのであろうか。



   ◆

 教祖伝を紐解いてみると、明治七年、八年には、重要な出来事がとても多いことに気づかされる。

 明治七年は、かぐら面ができ、証拠守りを渡される。大和神社のふしから高山布教の始まり。赤衣を召されるようになり、初めて身上たすけのさづけをお渡し下された。
 明治八年は、かんろだいのぢば定めや、こかん様のお出直し。つとめ場所が明らかになり、かんろだいについて詳らかに教えられる。
 おふでさきの執筆が無かったであろう明治三年から六年までは、教祖伝のページを見ても明らかのように、明治三年のページ(106頁)を一枚めくると、もう既に明治七年の記事が見えてくる。
 一方で、明治七年のページ (109頁) は、何枚もめくらないと明治八年の出来事が見えてこない。
 教祖伝のページ数を見るだけでも、明治七年と八年は、教祖がおつとめ完成に向けての準備を進められる上で、重要な出来事が凝縮されていることに気づかされる。
 また同時に、おふでさきと当時の史実は、密接に関わり合っていることが理解できるのである。


   ◆

 とはいえ、不思議だなーとも思った。
 教祖は、いろんな出来事があり、バタバタとお忙しい時は筆がすすみ、特筆すべき出来事のない、ゆったりした時には筆も少ない。
 普通、逆なのになーと思ったのだ。
 今、この記事を書いている私(三月)は、まあまあ忙しい月であった。人生の大切な節目として香川県へ行っていたし、本部学担の行事 (Joyous Style)の係員や青年会の部属分会委員長練成会、広島への引っ越し荷物まとめなど盛り沢山で、割とバタバタしていた。だから、中々筆が進まなかったのも当然だと思っていたのだ。
 私たち人間は、大抵忙しい時には筆が進まず、ゆっくり時間が出来た時に書かせて貰おうという気持ちになってしまいやすいのではないだろうか。

 ところが、教祖は違ったのである。ゆったりした時には筆が少なく、忙しい時に筆が多いのだ。やはり教祖は、「口」と「筆」と「心」と「行い」が、いつも一致しているのだと学ばせて頂いた。
 教祖から直接仕込まれた宮森与三郎先生のご教話に、こんな一節がある。

誠というものは、心と口と行いと三つそろわにゃ、誠やございません。誠の話をするくらいの人は、世界をさがしてごらん。竹杷でかき集めるほどある。いくら誠なことをいうても、それを実行せねば誠やございません。それは口だけの誠や。
教祖は、この三つがちゃんとそろうてあられたのや。それで、今日の道になって来たのや。(『本部員講話集(上)』「だめの教」)


本部員講話集(上)1

 毎月毎月、 『千読』で偉そうなことを書かせて貰っているが、 「誠の話をするくらいの人は、竹杷でかき集めるほどいる」 と仰せられる。肝心なのは、私自身の日々の心づかい、日々の行いはどうかということであろう。
 表紙のデザインもリニューアルし、新しい年度も、快く走り出すことが出来た『千読』。この際に今一度、 「筆」と「心」と 「行い」が別々になっていないか、再確認しなければならない。

天理教におきましても、教祖とはなれてしもうたら、安心することはできない。教祖とはなれないようにせなければならぬ。(同)

 ひながたをいつも心のそばに、教祖のような「誠の心」を目標にして、これからも楽しんで執筆、編集させて頂きます。

『稿本天理教教祖伝』 p109-110
年が明けると明治七年、教祖は七十七歳になられる。第三号から第六号半ばに亙るおふでさきは、この年の筆で、急ぎに急がれる親神の思召の程を誌され、重大な時旬の迫っている事を告げて、強く人々の心の成人を促された。(第六章 ぢば定め)

R184.4.14

参考文献
・天理教教会本部『稿本天理教教祖伝』
・中山正善『おふでさき概説』
・中山慶一「おふでさき-特に御執筆年代について-」 『天理青年教程』第四号
・道友社編集発行『本部員講話集(上)』
・澤井勇一「『話の台』おはなし考-宮森与三郎 『だめの教抄』を読む-」 『天研』第六号

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