17.所帯を任された。
両親もこの様子を見て、十六歳の年には、
全く安心して所帯を任せた。
『稿本天理教教祖伝』 p16( 第二章 生い立ち )
世の変化は、あまりにも早い。
テクノロジーの進歩によって、様々なものが次々と複雑に絡み合っていく。しかも、変化スピードは今なお加速中で、留まる気配は全くない。
そんな複雑な時代を、より良く生き抜くための大切なキーワードがある。
「信頼」である。
むろん、現代のみならず、いつの時代も大切であることは間違いないが、インターネットやサイバースペースが広がっている昨今、 「信頼」の価値はどんどんと上がっている。
ビジネスの世界は言うに及ばず、社会貢献や地域貢献をするにも、クラウドファンディングで資金調達するにも、はたまたお道のにをいがけ・おたすけでさえ、 「信頼」の土台なしには成り立たなくなっている。
多くの人が、フォロワーを集めたり、立場を求めたり、資格取得に励んでいるのは、詰るところ「信頼」の構築作業であろう。
お金も、仕事も、人間関係も、生きる上でとっても重要な「信頼」。
なんか、トランプタワーみたいだな、と思ったことがある。
築き上げるには、とっても時間がかかる。一つ一つに細心の注意を払い、慎重に組み立てていく。だけど、たった一つのミスで全壊してしまう。しかも一瞬で……。
どれほど時間をかけて構築しても、崩れる時は一瞬。だからこそ、価値は大きいのかな―と。
◆
さて、教祖は、お若い時から、ものすごく信頼されていた。しかも、ものすごく短い時間で。
「ちょっと待て。江戸時代を生きていた訳でもないお前が、なぜ、そんなこと分かるのか」
と怒られるかもしれない。
もちろん想像である。が、冒頭にあげた教祖伝の一文によって、教祖が如何に信頼されていたかを、全て説明できるような気がするのだ。
教祖は、御年十六歳で、中山家の所帯を任されている。よく考えてみれば、これはとっても凄い。この史実一点だけで、教祖の信頼度の高さを説明するには、事足りるのだ。
以下、もう少し詳しく当時の情景を思い浮かべてみよう。
◆
十六歳とは、若すぎる。
皆さんの身近に、高校一年生のお知り合いはいらっしゃるだろうか。どれほどしっかりした子であれ、所帯を任せるとなると、どう考えても、まだ幼い。
しかも、十三歳で嫁がれ、まだ、たった三年しか経っていないではないか。
さらに言えば、当時の中山家は、現代の核家族のように、小人数で暮らしていた訳ではない。
♪ 足達金持ち、善右衞門さん地持ち...
と唄われたように、沢山の奉公人を抱えていた鍋釜にぎわう大所帯であった。
昔の十六歳は、今よりしっかりしていたとはいえ、ちょっと若すぎやしないか。
――いや、もしかすると、ご両親はもうお年寄りだったのかもしれない。
そう思って調べてみたが、文久十年は、義父(舅)は五十五歳。義母(姑)の年齢は定かでないが、当時、四十八歳になられる教祖の実父・半七様の妹にあたるから、四十八歳以下ということになる。
まだまだ働き盛りのご年齢。もう年寄りでしんどいから、というお年頃ではなかった。
外から嫁いで来た、たった三年しか経っていない若嫁に、所帯を任すということは、教祖の日々の行い、働きぶりが、如何に素晴らしかったかを雄弁に物語っている。
ご両親から篤く信頼されていたことは、この史実だけでも充分説明つくだろう。
◆
考えてみれば、当初結婚は、ご本人の望みではなかった。尼になって、信仰の世界へ進みたかったはずである。
本来お望みでなかった立場、役割を、これ以上ないというほど完璧に務め切られている。こうした教祖のお姿に、私は敬服せずにはいられない。
「教祖のようには、到底なれないなー」と、いつも思うのだけれど、一方、教祖をお手本とするならば、今の自分も、もう少しだけ頑張れるかな、なんて思ったりもする。
教祖の道すがらを聞かせて貰っているということは、本当に有難い。
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さて、数回にわたって、立教以前の教祖のご足跡を偲ばせて貰いました。他にも掘り下げてみたいご事歴は沢山ありますが、いずれの機会に譲ります。
要は、人間として生きられた教祖は、誰もが認める素晴らしいお人柄だったということです。誠に行き届いたお方で、誰彼にも篤く信頼されるお方であったということは、共感いただけたことでしょう。
ところが天保九年、神のやしろとなられてからは、物もお金も、家も財産も、そして人々の「信頼」までも、全てを失くす道から始められました。
「ひながたの道」は、ここから始まります。一体、どういうことなのでしょうか。
貧に落ちきる道を歩まれた思召とは。それを、どう辿らせて貰えば良いのか……。
これからは、そんなテーマで皆さんと一緒に考えていきたいと思います。
R184.9.1