29.不思議が神④
「不思議」とは、とても不思議である。
日頃、私たちは「不思議」という言葉をよく使う。 「〇〇は不思議だね」とか「不思議な出来事だった」などと。
ただ、これらの日本語は少しおかしい。
「出来事」 の形容詞に「不思議」と表現しているが、厳密には出来事そのものに不思議が含まれている訳ではない。私たち人間の心が、不思議と感じただけである。
Aという出来事。太郎くんにとっては不思議でも、次郎くんにはそうでない場合もある。つまり、出来事Aが不思議な訳ではないのだ。
どんな現象であれ、原因があって結果となるが、その因果の結びつきが理解できなかった場合に不思議と感じるのであって、理性で説明できる場合には、不思議とは感じない。
不思議かどうかは、事象の如何ではなく、あくまで人間側の内面、理解度にあるといえよう。(※註1)
ところが、である。
理解力が増せば、不思議は減るのか。賢くなって知識を増やせば、驚きは減るのか、と問われたならば、決してそうではないことを発見する。
例えば、私たち人体の構造は実に不思議であるが、おそらくお医者さんの方が、私よりも遥かに不思議に感じておられる。(※註2)
壮大すぎる宇宙の不思議は、私より遥かに賢い天文学者の方が感じておられるだろうし、ニュートンは、りんごが木から落ちる様をも不思議に感じた。(※註3)
一見「不思議」とは、無能の方が感じやすそうに思えるが、真実はおそらく逆で、たくさん学び、理解力を高めれば高めるほど、不思議に気づくことが出来るのだろう。
どんな分野であれ、学べば学ぶほど、分からないことが分かっていく。能力を高めれば高めるほど、不思議は増えていく方が真実ではなかろうか。
反対に、不思議に感じないのであれば、それはたぶん賢い訳ではなく、分かった気になっているだけ。あるいは、関心がないとか。
およそ「不思議」とは、そんな構造になっているように思う。(※註4)
◆
さて、本題である。
現在、 「にをいがけのひながた」についての連載しており、人間の成人度合を、
① 信じていない人
② 信じはじめた人
③ 道を求める人
と三段階に分け、数回に亘って「①」を考察してきた(『千読』30~32号)。
今回は「①」→「②」への移行部分を考えていきたい。すなわち、教祖を信じていない人が、どうして信じはじめるようになったのか。教祖は、どのようにお導きになったのだろうか。
ふしぎなたすけハこのところ
おびやはうそのゆるしだす
(みかぐらうた 五下り目 二つ)
端的に答えるなら、 「神様の不思議なお働きを目の当たりに見せられた」と言えるだろう。
引用した『教祖伝』のように、具体的には、安産を守護するをびや許しから始められた(『天理教教典』48-49頁にも)。
ついこの前まで、誰も教祖のことを信じていなかったのに。それどころか、嘲笑の対象ですらあったはずなのに、教祖の不思議なおたすけを目の当たりにしてからは、手の平を返したかのように信じ始め、頼り始めている。
こうした史実から私たちは、成人の過程において、神様の不思議なお働きを実感することが如何に大切かを学ばせて頂ける。(※註5)
昔も今も変わらない。現代を生きる私たちも、日々の信仰生活において、だんだんと自信がなくなり、挫折しそうになることはままあるだろう。そんな折、ふと神様の不思議なお働きを感じ、それが原動力となって立ち直れた、という経験がある人も少なくないはずだ。
信じることが出来ない、凭れることが出来ない、と閉ざされた心。その扉を開く鍵となり得るのは、やはり神様の不思議なお働きだと思う。(※註6)
で、あるならば……。
神様はもっと、次々に不思議を見せられたらいいのに。もう少し頻繁に奇跡を起こした方が、信じない人も信じられるようになるのに、なんて思ってしまう。
ところが現実、奇跡はそうそう起きない。なぜだろう――。
◆
ここで、冒頭の話に戻ってくる。
そもそも「不思議」とは、私たち人間の内面の問題であった。起こってくる事象に備わっている訳ではなく、私たちの心一つによる。
不思議に出会えない理由、それは私たちの関心のなさや、分かった気になっているという自惚れ。詰まるところ「こうまん」を代表とする、心のほこりが原因である。外的現象として起きてこない、と嘆くのは少しおこがましい。
謙虚に御教えを学び、心を澄ます努力を積み重ねていくならば、きっと神様の不思議は見えてくるはずである。
にち/\にすむしわかりしむねのうち
せゑぢんしたいみへてくるぞや
(おふでさき 六 15)
何も奇跡が起きなくとも、今朝、目が覚めたこと一つ、不思議なはずである。(※註7)
そうして突き詰めていけば、毎日は奇跡の連続であり、この世の現象何一つ説明できるものはない。全てが不思議であることに気づかされる。
多くの中不思議やなあ、不思議やなあと言うは、
何処から見ても不思議が神である。
(おさしづ 明治三十七年四月三日)
自分自身はもちろんのこと、周囲の方々と相共に心を澄ます努力を重ね、日々一回でも多く、不思議を感じられる心を養いたい。起こってくる一つ一つに、神様の御守護を感じられる生き方は、きっと豊かな人生に違いない。
(R187.7)