13.伏せ込みのひながた
『稿本天理教教祖伝』 p235
これより先さき、飯降伊蔵の妻さいし子は、前年の九月から既にお屋敷へ移住んでいたが、三月二十六日(陰暦二月八日)、伊蔵自身も櫟本村を引き払うてお屋敷へ移り住み、ここに、一家揃うてお屋敷へ伏せ込んだ。
(第六章 ぢば定め)
4月より、上級・三原分教会で青年づとめをさせて頂いています。まだまだ慣れない生活で、おどおどしている私ですが、一つ思うことは、 「伏せ込み、まだまだ続くなー」ということです( 笑)。
天理教校では、「求道」と「伏せ込み」をモットーに学び、布教の家では、ひたすら成果の出ない歩み。大教会で伏せ込んで、上級教会でまた伏せ込み……。
環境は変われど、ずっと伏せ込み。 「お道なんて皆そんなもんだ。生涯伏せ込みだ」と言われたらそうなのでしょうが、それでは何となく暗いですし、楽しい雰囲気を感じません。
どうせなら、この道中も思いっきり陽気ぐらししたい。なんて、そんなことを考えていると、ふと、そもそも「伏せ込み」とはどういう意味だろう、という疑問を抱きました。
分かったように使っている言葉ですが、教祖は、どのような思召で説いておられたのでしょうか。
改めて、原典をもとに調べてみました。すると、新たな発見があったのです。そして、なるほど伏せ込みとは、ここをお手本にすれば良いのかと、今更ながら明確な目標が定まりました。
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「伏せ込み」という言葉は、おふでさき、みかぐらうたには出てきません。原典では主に、おさしづによって説かれています。
そこで、驚く発見をしました。「伏せ込み」という語は、おさしづにおいて 60 件ほど見つけられますが、そのほぼ全ては、飯降伊蔵先生がお屋敷に住み込まれたことについて言われているのです。
神様が「伏せ込み」と仰せられる時は、いつも飯降伊蔵先生の事柄。ということは、伊蔵先生の道すがらにこそ、万人の「伏せ込み」のお手本が示されているのかもしれません。
「よし!これからは伊蔵先生のように、徹底した素直な低い心を目指そう。」
そう意気込んだのも束の間。実践を心がけた瞬間、自信をなくしてしまいました。伊蔵先生のお心、御態度は、あまりにも綺麗すぎて、私には到底たどり着けるようなものではないと悟ったからです。
ですが一方、面白い事実も発見しました。
面白いと表現しては失礼ですが、当時の時代背景を調べてみますと、こんな私にでも、少しずつ頑張っていこうと思えるような、勇気を頂ける史実を見つけたのです。
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それは、伊蔵先生だって、いきなり素直に、神意に沿ったご行動をなされた訳ではなかったという史実です。
言うまでもなく、伊蔵先生ほど教祖のお言葉に実直だった方はおられません。
教祖が現身をお隠しになられてからも、以後二十年間、おさしづを通して、教祖のお声をお伝え下さる立場になったお方です。
教祖より、 「朝起き、正直、働き。この三つをしっかり守って通らにゃならんで」と、一度聞かせて頂いたら、それを生涯守り続けられるようなお方です。
ところが一点だけ、中々教祖のお言葉通り従うことが出来なかったことがありました。
それが、 「親子諸共、この屋敷へ住み込みなさい」というお言葉だったのです。
どうやら、慶応時代の初め頃から「親子諸共、この屋敷へ帰って来るのやで」と仰せられていたそうですが、伊蔵先生がそれを実行されたのは明治十五年。だとすると、約十八年もの間、教祖のお言葉に従わなかったことになります。
これは、一体どういうことでしょうか。
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あくまで推察ですが、おそらく伊蔵先生は、お言葉通りさせて頂きたい気持ちは山々だけれど、家族諸共住み込みとなると、かえって迷惑になるのではと、お屋敷を気づかわれての判断だったのではないでしょうか。
また、大工仕事の得意先、村の人達の人情にほだされて、中々決心できなかったということもあったでしょう。
しかし、神様の思召はもっと大きく、もっと先のことを仰っていたのです。
教祖の現身お隠れ以後も、世界たすけを進めていく上では、どうでも伊蔵先生にさせなければならない一役がありました。そのためには、お屋敷へ伏せ込まなければならない大切な思召があったのです。
だから、中々実行されない伊蔵先生に、次々とふしをお見せになり、どうでもお引き寄せなさいました。
長男がお出直しになった時も、
子店が潰れた時も、
目に障りがあった時も、
普請中、木屑が足の爪と肉の間に突き刺さった時も、
踏み台にしていた酒樽から転げ落ち、腰を嫌というほど打たれた時も……。
そうしたふしの度毎に、教祖は
「心配いらんで。早うこの屋敷に住み込むのやで」
と優しく諭されています。
が、人間には未来のことは分かりません。
将来、大切な御用に使う為に、どうでも伏せ込まなければならないということを、当時お分かりにならなかったのは、むしろ当然だろうと思います。
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とはいえ伊蔵先生は、住み込みこそされていないですが、毎日々々お屋敷に通い詰めておられました。
私でしたら、それで充分じゃないかと思ってしまいます。 しかし神様は、今度は子供に身上を見せられ、
「人が好くから、神も好くのやで。人が惜しがる間は神も惜しがる。人
の好く間は神も楽しみや。」
「子ども供があるので楽しみや。親ばっかりでは楽しみがない。早よう帰
って来いや。」
(『逸話篇』「八七 人が好くから」)
と仰せになり、これによって妻おさとさんは、子供二人を連れてお屋敷に住み込むこととなります。明治十四年九月のことです。
そして翌年三月二十六日、ついに伊蔵先生も、櫟本を引き払ってお屋敷に移り住むことになりました。
「これから、一つの世帯、一つの家内と定めて、伏せ込んだ。万劫末代動
いてはいかん、動かしてはならん。」(『逸話篇』「九八 万劫末代」)
この時、伊蔵先生は、神様の深い思召をお分かりになっていたのかどうかは分かりません。まさか自分が、将来本席という立場になるなんて、想像もしていなかったと思います。
けれども、人間思案を断ち切って、神様のお言葉通り実行されました。これが、伏せ込みの尊きひながたなのでしょう。
私もつい、人間的打算から、中々神様の教えを実行できないことがあります。この方が良いではないかと、理屈をごねてしまうのです。
新しい環境で始まった伏せ込み。この旬に今一度、しっかり神様のお言葉に耳を傾けようと思います。
そして、たとえ時間はかかっても、いつか、人にも神様にも好かれるような用木へと成人させて頂けるよう、本席様をお手本に伏せ込ませて頂きます。
R184.5.1