ニーファイ第一書17章:ないものの中にイエス様を見出す〔質問に答える〕
今日は今週の「質問に答える」パートです。1ニーファイ17章を学びながら最初に浮かんできた質問をきっかけにさらに深く調べ考え学んでいくプロセスを紹介します。
前回の記事は「質問を尋ねる」パートの記事です。まだ読んでいない人はこちらを読んでみてください。
まずはじめに、「旅」という視点から浮かんできたいくつかの質問を元にリーハイの家族がこれまでたどってきた道のりについての情報を整理してみました。
リーハイ家族の旅路
生まれてこの方、エルサレムに住んでいた(1ニーファイ1:4)
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エルサレムを後にして家族を伴なって荒野へ旅立つ(1ニーファイ2:1-4)
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3日間旅をして紅海にそそぐ川の近くの谷に到着しレムエルの谷と名付ける(1ニーファイ2:6-10)
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息子たちは真鍮の版を取りにエルサレムへ(1ニーファイ3:2-9)
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息子たち、レムエルの谷に帰還(1ニーファイ5:1,7)
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イシマエルの家族を説得するため再びエルサレムへ(1ニーファイ7:1-3)
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イシマエルの家族を連れて再びレムエルの谷に帰還(1ニーファイ7:22)
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天幕の外にリアホナ発見(1ニーファイ16:10)
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荒野へ南南東へ4日間旅をしそこをシェザーと名付け天幕をはる(1ニーファイ16:13)
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最も肥沃な土地をたどりながらさらに南南東に進路をとる(1ニーファイ16:14-16,33)
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東に進路を取り海沿いの果実と野蜜が豊かな場所、バウンティフルに到着する(1ニーファイ17:1,5-6)
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船を造る(1ニーファイ17:8, 18:1-4)
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出航(1ニーファイ18:5-8)
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多くの日の後、約束の地へ(1ニーファイ18:23-25)
リーハイ家族の旅とわたしたちの人生の共通点
これらの旅路についての情報を整理しながら、改めてその道中で彼らが経験したことが決して容易なものではなく、非常に多くの難しい経験を乗り越えてきたものであることもわかってきました。しかし、同時にリーハイの家族が経験した困難の多くはわたしたちの人生にも同様に起こりえることだと感じました。
例えば彼らは荒野での旅の間、弓で狩りをして生活の糧を得ていました。しかし途中弓が折れてしまい深刻な食糧難に直面しました(1ニーファイ16:17-32)。わたしは狩りをしたこともないし、それによって得た食糧で家族を養うという経験もしたこともありません。でも、わたしにとって当時勤めていた職場の部門閉鎖に伴う離職とその後10カ月間の正規の仕事につけなかった期間は彼らがした経験と多くの共通点があるかもしれないと考えました。
他にも例えばリーハイの家族は旅の中で次のような経験をしました。
近親者の死
自分の能力を超えていると感じられる課題
家族間での仲たがい、価値観の相違、対人関係の問題
自分の罪や弱さ、愚かさ
他の人の選択・自分の選択・自分を取り巻く環境の変化や自然災害による影響
このように考えると、彼らが旅の中で経験したことの多くはわたしたちの人生と時代を超えて多くの共通点があることに気づき、彼らの「旅」がまるでわたしたちの「人生」のように見えてきました。
火を使うことができない。だからこそ…
そのような視点で彼らの旅を調べてみると、この度の聖文研究では一つの特徴が目に留まりました。
この聖句に再度読みながら、次のような質問が思いに浮かんできました。
火がない荒野での8年間の旅とはいったいどのようなものだっただろう?
荒野での旅において火は本来どのような役割を持っていただろう?
火は暗い荒野の夜において欠かせない光源であったはずです。あるいは、危険な野獣から家族を守る働きもあったはずです。火は衛生面でも欠かせないものです。火のない8年間の荒野での生活というのは、本来、その環境下では家族の安全や安心、生命のためにも決して欠かせないもののはずでした。
火がなかったために、主は彼らの光であることを示され、彼らも主こそが光であることを悟りました。なかったからこそ、本当の光、本当の守り、本当の清さをもたらしてくださるイエス・キリストが浮き彫りになってきます。
モーセとイスラエルの民の旅にある関連性
モーセとイスラエルの民の旅の中にも同じレッスンがあることをニーファイは指摘しているように見えてきました。
イスラエルの民の前には紅海の行き止まり、後ろにはエジプトの軍勢が迫っていました。どこにも道はありませんでした。
しかし、彼らにとって本当の「道」は彼らの救い主でした。
イスラエルの民にとって、荒野の旅における日々の糧はありませんでした。しかし、日ごとに与えられる天からのマナが彼らの糧でした。
本当の命を与えるのはイエス様でした。
荒野でイスラエルの民の渇きを癒す水は見出せませんでした。しかし、あふれるほどの水、決して絶えることのない水の源はイエス・キリストでした。
「まことの生ける神」に信頼を寄せる
このようなことを自分なりに発見していくと、この章の中でニーファイが使っていたイエス様の称号の一つがわたしにとってもっと意味深いもので、ニーファイが意図をもって選んだ言葉のように見えてきました。それは、「まことの生ける神」(1ニーファイ17:30)です。
わたしたちの日常の中には、一時的な満足や気晴らしを与えてくれるものはたくさんあります。時にそれはわたしたちが求めている「救い」とさえ感じることもあります。
でも足りないもの、失ったことを本当の意味で満たしてくれるのは、本当の意味での救いをもたらしてくれるのは「まことの生ける神」であるイエス様ではないでしょうか。
わたしは、何か不足しているとき、何かを失うときに何によってそれを満たそうとしているだろう?
わたしは、何か不足しているとき、何かを失うときに何に焦点を当てているだろう?ないものに焦点を当てて不満を言ってはいないだろうか?
わたしは、何か不足しているとき、何かを失うときにそれを本当の意味で満たすことのできる「まことの生ける神」であるイエス様に心を向ける機会にしているだろうか?
「あるもの、与えられているもの」の中にイエス様を見出すこともできるますが、「ないもの、失われたもの」の中にイエス様を見出すとき、それはわたしにとってイエス様がもっと意味のある御方になる瞬間です。
ないとき、失われたときは、それはわたしがイエス様ともっと深い出会いをする機会なのだと改めて気づきました。
アヤコさんの経験
わたしが19歳の8月から21歳9月までの2年間、末日聖徒イエス・キリスト教会の宣教師として奉仕していました。ある時わたしは和歌山県で働きていましたが、そこでアヤコさんという方と出会いました。ある日、彼女とイエス・キリストの教えについて話をしていた時に、最近彼女に起こった変化について話してくれたことがありました。
彼女によると、お酒は彼女にとって欠かせないものでした。特に大きなストレスに直面したとき、うまくいかないとき、彼女はお酒を飲んでその時間だけいろいろなことを忘れて楽しむことができました。しかし、最近彼女はお酒を飲んでいないというのです。
ストレスがなくなった?困難な経験はなくなった?
いいえ、違います。彼女はもっと良い方法を見つけたのです。彼女はこれまでであればお酒に頼っていたであろうその時に、イエス様に頼るという新しい方法を学びました。彼女はその時にお祈りするようになったんだと話してくれました。この17章を学びながらこのことを思い出しました。
ないものの中にイエス様を見つける
そして、この最後の質問が心に浮かんできました。
イエス様はわたしに足りないもの、わたしが失ったものをどのように満たしてくださっただろう?どのように満たしてくださるだろう?
今週のわたしの学びの学びの紹介はここまでにしましょう。ないものの中にこそイエス様を見出すことができるのだという思いを深めることができました。また、ここには書かないいくつかの個人的な経験や課題を思い浮かべ、学んだことを自分に置き換えて新たなアイデアや決意を得ることができました。
さて、読者の皆さんはどうでしたか?
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