
ヤコブ書6-7章:永遠の命を得るまで…続ける〔質問に答える〕
これまで、ヤコブ5章で引用されていた「オリーブの木の譬え」から学んだプロセスを紹介しました。この譬えの引用にはヤコブにとっての明確な意図がありました。そのことについて学んだプロセスをまとめた記事はこちらからお読みいただけます。
そして、著者の意図を踏まえて「オリーブの木の譬え」から学んだことをまとめたのがこちらの記事です。
今回の個人的な学びを通して、この譬えが「果樹園の主人」と「オリーブの木」の関りを、比喩を用いて教えるものであることには重要な真理が暗に示されていると感じました。それは、目的の達成のために「果樹園の主人」(つまりイエス様)はとにかく何でも力の限りを尽くすのですが、その木がどのような実をつけるのか、実をつけるはずの枝がどのような状態になるのかは、果樹園の主人としもべの骨折りと熱心や働きは非常に重要な要素であることは間違いありませんが、最終的には彼らの働きの及ばない要素が結果に何かしらの影響を与えている、ということです。
実際に作物を育て、収穫を得ることはそのような経験です。どれほど知識と経験が豊富な果樹園の主人であったとしても、すべてをコントロールすることはできません。イエス様や神様がわたしたちを導こうと最大限の骨折りをされる際にも、御二方が決してコントロールされない領域があります。5章ではそのことを次のように表現しています。
わたしはこれを良い土地に植え、これまで長い間養いを与えてきたが、この木は一部分だけが、栽培した木が結ぶような実を結び、他の部分は野生の実を結んだ。見よ、わたしは、この木にもほかの木と同じように養いを与えてきた。
見よ、あるのはすべて悪い種類の実であり、わたしたちのあらゆる骨折りにもかかわらず、まったくわたしの利益にならない。しかし、この木を失うのは悲しい。
さて見よ、わたしたちが果樹園でできるだけの世話をしたにもかかわらず、果樹園の木はだめになってしまい、少しも良い実を結ばない。……
しかしわたしは、果樹園でこれ以上何ができたであろうか。わたしは怠けて養いを与えなかったであろうか。いや、わたしは養いを与えてきた。果樹園を掘り起こし、刈り込み、肥料もやった。ほとんど一日中、手を差し伸べてきた。
5章に続く6章を学ぶ中で、オリーブの木を大切に思い、オリーブの木の現在の状態に左右されず、木の再生と良い実の収穫を決して諦めず、一日中手を尽くし続ける主人の姿から、イエス様のわたしたちに対する深い憐みと慈しみを示すのと同時に、イエス様が絶対に「コントロールされない領域」の重要性を強調することを意図してヤコブは「オリーブの木の譬え」を引用したということが分かってきました。次の聖句に注目しました。
神はわたしたちに対して何と憐れみ深いことか。神はイスラエルの家を根も枝もともに覚えて、終日彼らに手を差し伸べておられる。ところが、彼らは強情で反抗的な民である。しかし、心をかたくなにしない者たちは皆、神の王国に救われる。
だから、わたしの愛する同胞よ、あなたがたが悔い改めて、十分に固い決意をもって神のもとに来て、神があなたがたを心にかけて来られたと同じように、あなたがたも神に堅くついて離れないように、わたしはまじめな言葉であなたがたに勧める。神の憐みの腕が、昼の光の中であなたがたに述べられている間、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。
まことに今日、神の声を聴こうとするならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。なぜあなたがたは死のうとするのか。
ヤコブが明確に示しているのは、主は「わたしたち自身の選択」を決して侵害されないということです。全力で促し、導き、育み、養い、促進されますが、その上でわたしたちが選ぶことを見守られます。わたしたちが心をかたくなにすることで主の養いを受け入れないことを選ぶとき、主は悲しまれますし主は決してわたしたちを諦めませんが、無理やり主ご自身が望まれる結果を引き出そうとはなさいません。
主がわたしたちのためにされた最も大きな骨折りであった「贖罪」の業は、文字通りすべての神様の子供たちの罪と苦痛を引き受けられたことでしたが、すべての神様の子供たちがそれを感謝して受け入れるわけではないでしょう。しかし、たとえ自分の骨折りがある人にとっては価値のないもののように踏みつけられてしまっても、主はその人のためにも「すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」ことをお選びになりました(モロナイ7:45、1コリント13:7参照)。
イエス様は一人一人すべての神様の子供たちが、つまりわたしやあなたが救われることを選ぶと信じて、希望を抱いて、そのために一人残らず、一つの罪も残さず、一つの涙ももれなく引き受けられ、それを堪え忍ばれたのです。わたしたちの幸福と喜びのために、これほどまでに骨折りをしてくださる「主人」がいるでしょうか?
だからこそ、ヤコブは次のように勧めています。
神があなたがたを心にかけて来られたと同じように、あなたがたも神に堅くついて離れないように、わたしはまじめな言葉であなたがたに勧める。
おお、わたしの愛する同胞よ、悔い改めなさい。そして、狭い門から入り、永遠の命を得るまで細い道を歩み続けなさい。
6章に続く7章(ヤコブの最後の記録)に唐突に出てくる反キリストのシーレムの物語も、今回学んだわたしにとっては、「キリストを救い主として受け入れるかどうかの選び」の物語でしたし、その非常に重要で決定的な選びは決して特別なときに訪れる機会ではなく、今日という日常の中にある選びが問われていることを思い起こさせてくれる教訓でした。
ヤコブは自身が厳選した選りすぐり記録であった1-7章まで、一貫してわたしに次のように問うていたのだと感じました。

あなたの救い主イエス・キリストがあなたをどれほど愛し慈しんでおられるかを感じられますか?
今この時に差し伸べられているイエス様の憐みの御手に気づいていますか?
あなたの今日の選びが、イエス様をどれほど悲しませ、あなたとあなたの最も愛する人たちを傷つけるものだったのか理解できましたか?
どれほど愚かで忌まわしい間違いだったとしても、どれほど希望が失われたような状況に置かれたとしても、心をえぐり切り裂かれるように感じられる傷を負ったとしても、イエス様はまさにそれを救うために骨折りをしてくださったのだと悟ることができますか?
あなたの今日のこの喜びと成功は、イエス様の骨折りと絶え間ない養いによって結ばれた実だということを知っていますか?
あなたは、あなたとあなたの家族の救い主イエス・キリストにもっと感謝し、もっと愛することができると思いませんか?
わたしはイエス様を愛していますが、もっと愛をあらわしたいと今感じています。あなたも、あなたの聖文研究を通して、あなたとあなたの家族の救い主をもっと見出すことができるようにお祈りしています。モルモン書は確かに、あなたと救い主との個人的な出会いを力強くガイドしてくれる聖典だとお伝えします。