ニーファイ第2書6-10章:聖約、贖罪、和解〔質問に答える〕
2ニーファイ6-8章ではヤコブがイザヤの預言から引用して、イスラエルの家に対して主が交わされた聖約を明らかにしていました。今週は2回にわたり「質問を尋ねる」の記事でこの「聖約」についてどのように学んできたかを紹介しました。まだこれらの記事を読んでいない方はこちらからお読みください。
イザヤの預言:「聖約」の要点
イザヤの預言の引用を学んでいると、それらの預言の中に主が交わされた聖約について大きく2つの要点があることがわかってきました。
イスラエルは自らの背きのゆえに主から離れ散乱するが、再び集められる
イスラエルを集め慰め救うために贖い主が遣わされる
ヤコブはニーファイ人を前にしてこの預言を教えましたが、それは彼ら自身がこの預言の一部、イスラエルの家の一部であり、この約束は自分たちにとっても必ず果たされるのだということを強調しました。
「聖約」:個人に向けられたもの
しかし読み進めていくと、ヤコブはこれらの聖約を「民」全体について語っているだけではなく、「わたし」「あなた」という「個人」にも当てはめることができる聖約であり、祝福であると教えようとしていように感じられました。
特に9章でヤコブが教えていることは、わたちたち誰にとっても「自分の贖い主」に出会うために大切なことが説き明かされているように感じられます。
神様やイエス様を受け入れるよりも拒んだり、信じるよりも疑ったり、忠実であるよりもその戒めに従わなかったり、信頼するよりも自分や人の力で何とかしようとするなどを通して、わたしたちも昔のイスラエルの民のように、自らの選びで主に背きます。
自ら離れ、自ら相容れない者となり、自ら敵対する者が、再び和解しもとの状態に戻ることは、「民」という全体を通してというよりは、個人個人で達成される事柄です。
ヤコブはどのようにこの神様との「和解」が可能になるのかを説明しています。
前提となる3つの真理
ヤコブは9章でまずそのための前提となることをわたしたちに教えています。わたしたちが神様と「和解」するためにはこれらの前提を信じて受け入れる必要があります。
わたしたちは皆、死にます。(2ニーファイ9:4)
わたしたちは皆、イエス・キリストのおかげで再び復活します。(2ニーファイ9:6-13)
そしてわたしたちは皆、神にまみえ、自分の選びについて裁きを受けます。(2ニーファイ9:14-16)
ここまで整理したところで、ヤコブと全く同じ前提を強調した預言者がいらっしゃったことを思いだしました。ラッセル・M・ネルソン大管長です。彼は2022年5月に若い成人たちに向けて次のように教えました。
ヤコブとネルソン大管長が強調しているように、これら3つの基本的な真理を信じ受け入れるかどうかで、わたしたちの人生の視点が決まります。生まれて死ぬまでの人生・目の前で起こっていることがすべてであるかのように見るでしょうか?それとも永遠を見ようとするでしょうか?これは紀元前の世界でも、現代の世界でも変わらない視点です。
キリストの贖罪:「和解」への道が備えられた
ヤコブは、わたしたちが神様に背いた状態にとどまり、終わりを迎えることのないように、つまり「和解」するための道を備えるためにイエス・キリストがこの地上に来られること、わたしたちのための「贖罪」を成し遂げられることを詳しく説明しました。
「和解」とは、別々の・離ればなれになったものが再びひとつになることです。
「贖罪」についてのヤコブが説き明かしには少なくとも以下の要点が含まれていました。
堕落の影響により、人が現在置かれている状況
贖罪が「無限の贖罪」でなければならない理由
贖罪の重要な側面としてのキリストの復活
復活によりすべての人が不死不滅の状態によみがえる
贖罪は肉体の死と霊の死を克服する
人は死からよみがえるときに自分自身の状態についてありのままの知識を得る
イエス・キリストはすべての人の苦痛を受けられる
わたしが今週学ぶプロセスでこれらすべてのことについて、更に深く理解したいという望みに駆り立てられたことを想像していただくことができるでしょう。実際に、多くの質問をもって調べ、深く考え、振り返り、求めました。しかし、今日のこの記事ではそれらの学びやプロセスを紹介するのではなく、次のことを考えていきたいと思います。
神様から離れてしまうことで……
何かが足りない
あまり幸せではない
喜びが得られない
傷ついて前進する力がわいてこない
不安で希望を見出せない
と感じている時、どのように神と「和解」して慰めや癒しや力や赦し、清め、救いを見出せるでしょうか?
悔い改め:「和解」への道に一歩踏み出す
ヤコブが教えようとしていること、民が神様の恵みを受けられるようにするために促そうとしていることは非常に明確でした。
背き離散したイスラエルの家は再び集められ、喜びに回復されるというイザヤの預言を読んで聞かせたヤコブは、その聖約の範疇にいる神様の子供である「すべての人」一人一人が自分の背き、つまり罪の状態にとどまっていてはいけない、と教えました。
悔い改め主に立ち返ることでやり直すことができ、再び喜びに回復される道がイエス様によって一人一人の前に備えられていることを示しました。イエス様があなたを助けることがお出来になり、助けようとしてくださっていることをはっきりと宣言しました。
イエス・キリストの贖罪という聖約を自分に当てはめる
これらの言葉を聞いていたニーファイ人たちはどのように感じたでしょう?この時にはすでにレーマン人たちとの分断が決定的なものになり、二つの民族の内で多くの争いや戦争が起こるようになって久しくたっていましたが、ある人たちは自分たちの家族、親族、同胞である人たちとの間に起こっている対立に「和解」の力が現れることに希望を抱いていたかもしれませんし、ある人は自分の背きや罪の結果として御霊や喜びの感覚が薄れている中、いつの間にか主と相容れない者になってしまっている自分を自覚して神様との「和解」の一歩を踏み出す決意をしたかもしれません。またほかの人は、子供たちや大切な人たちが主の道から離れてしまっていることに心を痛めて、しかし、主が子供たちを愛する人々を決してお見捨てにはならないということに信頼を寄せ平安を感じていたかもしれません。
読者の皆さんはどうでしょうか?どのようにイエス様の贖罪、一人一人に向けられているイエス様の憐れみに心を向け、どのような思いや気持ちを感じているでしょうか?
わたしは、このことに心を向ける中でイエス様ご自身が新約聖書の中で語られた「放蕩息子」の譬えを思い出しました。これはまさにヤコブが教えようとした「和解」と「贖罪」と通じる物語です。
わたしはこのヤコブ9-10章を学ぶプロセスで、わたしがそうするように導かれたように新約聖書のルカ15章と関連付けて学び、深く考えるように読者の皆さんにお勧めします。
また、末日聖徒イエス・キリスト教会で2023年10月に行われた総大会の中で十二使徒のディーター・F・ウークトドルフ長老が「放蕩息子」の譬えについて教えられた説教もあわせて読むようにお勧めします。
これらの一連の学びのプロセスは、わたしを次の質問に導きました。
わたしやわたしの愛する人のために主が約束してくださっていることは、わたしにとってどれほどの希望となるだろうか?
わたしは今、イエス・キリストとその希望の光に背を向けて影が目の前に落ちている状態なのだろうか?それとも、キリストとその希望の光に顔を向けて影をわたしの後ろに落としている状態なのだろうか?
わたしは「勇気をもって悔い改め、赦しを受け、思いやりと憐れみに満ちた神のみもとへ戻る道を進む」一歩を踏み出すだろうか?(ディーター・F・ウークトドルフ「放蕩の果てに- 家へと続く道」2023/10総大会)
わたしは、どうするだろうか?
さて、今週の記事はここまでです。しかし、わたしとあなたのイエス様を知るプロセスがこれからも続きますように。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?