ヤコブ書1-4章:主は純潔と貞節を喜ばれる〔質問に答える〕
先週から2つの記事で、「主は純潔と貞節を喜ばれる」というテーマで学んだプロセスを紹介してきました。その中で、性や道徳に関するクリスチャンの価値観や教えを学ぶだけではなく、親として子供にこの大切なトピックを教えるという務めにおいて、自分を振り返り反省する機会を持つことができました。このトピックは、現代に生きる一人の人としても、親としても避けては通れないものですので、読者の皆さんにとっても役に立つ気づきがあればと願っていますし、皆さんのご意見や経験もコメントから共有してもらえると嬉しいです。
先週の記事を読んでいない人はこちらからお読みください。
さて、引き続き親としての実践について反省し、そこからさらに学んだことを紹介していきます。
反省③:目的と福音の観点から語る
わたしたち親は、子供に受け継ぎたいと思う価値観や教えを繰り返し教えます。しかし、その時に何に焦点を当てるかによって子供の心に何が刻まれるかが左右されることを理解する必要があります。
最近、子供たち、とくに真ん中のお姉ちゃんと一番下の弟との間に度々仁義なき戦いが繰り広げられます。それぞれに主張があるのでしょうが、相手の言い分は聞き入れられず、自分の気分が害されたことや、自分の正当性のみ声を挙げて主張するものですから、二人の声はますます大きくなり、感情もますます高まっていきます。そのような姉弟喧嘩が毎日のように繰り広げられるのですから、怒りの感情は習慣であるかのように即座に反応するようになり、喧嘩の頻度も高くなっているように感じていました。
そんな中つい先日も、再び二人の主張がぶつかりました。
この日は、我が家に友人を招いており一緒にイースターの食事を楽しむ計画でした。我が家ではたくさんの友人を招くときには食卓テーブルだけでは足りないため、収納ボックスと厚手のベニヤ板で即席のテーブルを作るのですが、この日も下の子供たちにこの即席テーブルを準備するようにお願いしました。
普段は即席テーブルに使う収納ボックスは子供部屋の壁際に置いてあるのですが、なぜがこの日は子供部屋のクローゼットの中に片づけられていました。その代わりに、普段クローゼットにあるはずの収納ボックスが外に出ていたのです。
お姉ちゃんがクローゼットの中に片づけられていた収納ボックスを一生懸命外に出してリビングルームに運び出そうとしてくれていました。片や弟は、外に出ていた別の収納ボックスを本来あるべきクローゼットの中に片づけようとしていました。
ちょうど、それぞれの思惑が交差する場所は、二人がそれぞれの作業を相手に干渉せずに遂行するには狭すぎました。
そして、二人の感情の衝突が再び起こりました。弟がクローゼットに向かって収納ボックスを移動させようとしていたところで、クローゼットの中から即席テーブル用に収納ボックスを運びだそうとしていたお姉ちゃんの足にぶつかってしまったのです。
キッチンで食事の準備をしていたわたしにも二人の叫び声が聞こえてきました。二人の声のトーンとボリュームは自分たちだけで解決できる状態ではないことを示していましたので、わたしは子供部屋に向かい状況を把握しました。
2人に声のボリュームを落とすように伝えてとりあえず落ち着かせてから、一人づつの主張を聞きました。このようなとき、わたしはできるだけ子供たちに相手の事ではなく、自分のことに焦点をあてさせるように伝えます。相手が自分に何をしたのか、相手が主張することは真実とは異なる、相手は間違っていて自分が正しい、ということを訴えたくなるものですが、冷静に、自分が何をしようとしていたのか、実際に自分は何をしていたのか、自分がもっとこうすれば良かったと思うことは何かを考えるように促します。
今回も、一人一人がそうできるように言葉をかけながらサポートして、事実と二人の感情の交通整理に努めました。そうすると、二人の中で自分と相手について次のようなことがわかってきました。
お姉ちゃん:
お父さんから言われた即席テーブルを準備するため、率先して収納ボックスを運び出そうとしていた。
狭いクローゼットの前で四苦八苦しながら頑張っていた。
弟:
外に出ていた収納ボックスを本来あるべき場所に戻した方が良いと思い、率先して収納ボックスをクローゼットに運び込もうとしていた。
お姉ちゃんが頑張っているので、自分もできることをしようと頑張った。
それぞれ、自ら進んで良いことをやろうとしていたのです。お互いが一つのミッションに向かって自分の役割を見つけ、それを遂行しようとしていました。そのことが気づくと、次のことも冷静に考えられるようになってきました。
弟
クローゼット前は狭いので、お姉ちゃんが収納ボックスを運び出すのを待ってから、自分の収納ボックスを運び入れればよかった。
お姉ちゃん
ぶつかって来たのではなく本当は助けようとしてくれていた弟へ、強い口調で怒らず伝え方を変えればよかった。
ここまでで、
引き起こされた望ましくない結果
それを避けるために何をして、何をしなければよかったのか
がわかりましたが、もう一歩子供たちと一緒に考えたほうが良いと感じました。それは、
なぜ、何のためにそれをするのか
ということです。このことを子供たちの心に入れることができれば、この場の喧嘩を仲裁するだけでなく、今後二人の間で喧嘩が起こりそうな場面でも違った結果を引き出せるようになる、そもそも喧嘩を思いとどまれるようになるかもしれない、と思ったからです。
わたしは心の中で祈りながら、子供たちに次のように語りかけました。
「お父さんは、二人や家族みんなを大切に思っているよ。イエス様がそう約束してくださったように、みんなと『永遠の家族』になりたいと思っているんだ。
でもお姉ちゃん、今弟くんに対してどんな気持ち?弟くん、お姉ちゃんに対してどんな気持ち?
モルモン書のレーマンやレムエルとニーファイがどうなったか覚えている?家族の中で、レーマンやレムエルがニーファイを責め続けたので、結局彼らは兄弟なのに一緒にいられなくなってしまって、ずっと争わなければならない状態になってしまったよね。
とっても悲しいことだと思わない?『永遠の家族』になるためには、『永遠に一緒にいたいと願い合える家族』にならなきゃいけないんだ。お父さんは、お姉ちゃんや弟くん、家族みんなとそういう家族になっていきたいと思っているんだよ。」
子供たちは二人とも、わたしの問いかけや語りかけに時々、自分の気持ちや考えを自分の言葉で話してくれました。そして、最後には相手を責めるのではなくて、自分がしてしまった失敗とこうすれば良かったということを、お互いに謝ることができました。
何をしなければいけないか、何をしてはいけないかということを伝えることはそれほど難しいことではないかもしれませんが、「何のために」そうするのかがわかると、そうしたいという望みがわいてきます。また、正しいことを実行するための勇気が湧いてきます。その場限りの行動が変わるだけではなく、心が変わるのを後押しすることができます。
今回の学習のプロセスの中で性というトピックについて教え、純潔や貞節について教えてきた自分を振り返ったときに、何をするのか・何をしてはいけないのかのリストとして教えてきたことがあったと反省しました。「何」を教えても「何のために」を十分に理解できるように一緒に考えてきたかを振り返りたいと感じました。
次の言葉を思い出しました。
イエス様の福音のどのような側面を教える時にもこの教えは大切ですが、従うことが難しいと感じること、世の中の標準とかけ離れているため多くの疑問や葛藤に直面するだろうことについて教えるときには、特に大切な意味を持つと思います。
子供たちが今現在でなくても、将来、誘惑に直面したときに福音の「なぜ」が力になると信じています。ですから、もっと「なぜそうするのか・そうしないのか」の目的を、福音の観点で教えたいと思います。
性に関する事柄について、その目的と福音の観点を以下のお話はよく教えてくれています。皆さんもぜひ学んでみてください。
反省④:腹をくくる〔キリストを信頼する〕
今回の聖文学習で最も大切な反省と気づきは、もっと子供たちとキリストについて語り合うことです。自分が心から信じていることの中心にある御方について、親として子供に真剣に、より頻繁に確信を伝える必要があるということです。
自らも実感しているように、純潔と貞節に関する価値観を心に刻み、それに従って生活しようと心に堅く決意したとしても、世の価値観や誘惑と全く無縁の生活を送ることは至難の業です。ほとんど不可能と言ってもいいかもしれません。
ですから、子供たちは必ず誘惑に直面するのです(と考えていた方がよい、と思います)。子供たちの安全を守るためにフェンスを設置することは大切ですが、フェンスがあるのだから子供は絶対に安全だと高をくくってはいけません。子供が自らフェンスを乗り越えないとは言いきれませんし(幼少期や青少年時代には特に、子供は良くも悪くも親の想像を超えた言動をするものです)、フェンスが万能であると思い込むのは愚かなことです。
その時に、子供たちの本当の守りになるものは何なのかを親として真剣に考える必要があります。子供が傷つかないことを願いますが、傷ついたときに何が癒しとなるかを教える必要があります。子供がつまずいて失敗しないことを願いますが、何が立ち上がる力になるのかを教える必要があります。
モルモン書の中の模範を思い出しました。レーマン人との戦時中、父たちに代わり、自分たちの恩人であるニーファイ人を助けるために立ちあがった2000人の若い勇士たちの物語です。彼らは戦いの場に身を投じましたが、送り出した親たちは子供たちが危機に直面することなく安全に、何事もなく帰ってくることを望んだかもしれませんが、このような状況下ではそのようなことは期待できない望みだということを理解していました。自分の子供たちは必ず危機に遭遇するし、命を落としても不思議はないことを覚悟していたはずです。そして、まさにその命の瀬戸際に、親である自分たちは子供たちの盾となって彼らを守ることはできないということも理解していました。
2000人の若い勇士たちの母親は彼らの心に「キリストを信頼する」ことを刻みつけていました。彼らは、母親が何度も教え証してくれたこの真理がどのような力を持つのか、実際に危機に直面するまでははっきりと知りませんでした。しかし、キリストは確かに若人の強さとなってくださいました。
そしてこれは決してビギナーズラックでも、偶然起こったたった一度の奇跡でもありませんでした。次の戦闘でもその力が子供たちを守りました。
純潔と貞節を守る戦いにおいて、「傷をたくさん負わない者は一人もいない」ことを受け入れて、親として腹をくくることです。しかし、だからこそ彼らに本当の守り、本当の癒し、本当の力、本当の勇気、立ち上がりよみがえるための本当の救いを教えなければいけません。
そして、それこそまさに救い主イエス・キリストであり、イエス様がわたしたちの愛する子供たちのためにしてくださった無限の贖罪です。
自分のこれまでの実践を反省しつつ、家庭の中でもっと真心から、喜びをもって、頻繁に救い主について語りたいと感じました。
ヤコブが本当に教えたかったこと
ヤコブはニーファイの民の好色や不貞を責め、その罪がもたらす結果を明確に告げました。しかし、ヤコブは家族の罪によって心を引き裂かれても、完全に傷を癒す軟膏はあるという希望のメッセージを証しています。
ヤコブはどれほど忌まわしい罪を犯しても、赦しと清めを再び受ける道は備えられているという希望のメッセージを宣言しています。
悔い改めることで、罪や失敗、習慣や依存症という束縛から解放されることができます。そして、それはイエス・キリストの憐みによる贖罪によって可能になります。
この最も大切なメッセージがわたしの目の前に立ち上がってきたとき、次の質問がわたしの思いに浮かんできました。
子供を教える父親として、過去の後悔や誤った子供への教え方や態度を反省するわたしにとって、イエス・キリストの贖罪はどのような希望をもたらすだろう?
子供を教える父親として、今からでもより良く改善し、もっと良い教え方や態度を実践しようと決意するわたしのとって、イエス・キリストの贖罪はどのような力や支えを与えてくれるだろう?
わたしの心にある救い主への愛と感謝と確信を、子供たちにどのように、どのような場面で、もっと伝えられるだろう?
純潔や貞節を喜ばれるというイエス様の教えを出発点に、この大切な価値観と真理を再び学び、自分の親としての実践を振り返って反省し悔いて、そしてやはりわたしの救い主イエス・キリストとイエス様が与えてくださる希望と光に行きつきました。
今日の記事はここまでにします。
これからも学びが単なる知的な欲求を満たすだけのものではなく、自身に当てはめ、変わる望みを奮い立たせ、イエス様を見出す経験となるように願っています。