ニーファイ第二書4章35節:答えを受けるための求め方〔質問に答える〕
ニーファイは家族内の大きな葛藤を経験し、その中にあって一つの大切な真理を思い起こしました。それは、「神は求める者には惜しみなく与えれる」ということです。「神様に求める」こと、祈りと「神様から与えられる」こと、つまり祈りの答えについてさらに学んでみたくなりました。
前回の記事をまだ読んでいない人は以下から読んでみてください。
「知っています」と言い切るニーファイの祈りの経験を調べる
2ニーファイ4:35にあるニーファイの言葉は非常に確信に満ちた響きを持っています。
前回記事の終わりに、この聖句にあるニーファイの’「道理に外れた求め方をしなければ」という箇所と共通した概念について教えていると思える他の箇所を探したことを紹介しました。これらの聖句は、今後の学びと理解の材料になりそうな素材としてひとまずはわきに置いておくことにします。
次にわたしが興味を引かれたのは、ニーファイが35節で「知っています」と断言していることでした。わたしは、次のように考えました。
「ここまで『知っています』と断言するからには、単に『聖文のここにそのことが書いてあるのを読みましたから』とか、『お父さんがそう教えてくれましたから』とか、そのような意味での『知っています』ではないな。」
それは、ニーファイにとって幼いころから聖文や家族の教えの中で学んだことと、自分自身の体験が結びつくことで確信をもって発せられた「知っています」だと感じました。
つまり、ニーファイはこれまでの自分の祈りの経験を通して、「神様は道理に外れた求め方をしなければ惜しみなく与えてくださる御方だ」と理解するようになったのだと思ったのです。そこで、わたしはニーファイの祈りの経験を研究することで、彼が言う「答えを受けるための求め方」について理解を深められるのではないかと感じました。その流れで自然と浮かんできた次の質問は、「ニーファイはこれまでどのような祈りの経験をしてきたのだろう?どのように求め、どのように答えられてきたのだろう?」というものでした。
ニーファイの祈り①:若くとも、大きな望みを抱いて叫び求める
ニーファイは生まれてからずっと家族と一緒にエルサレムに住んでいました。しかし、ある時に父親リーハイが神様からのお告げ(啓示または示現)を受けたと自分たちが住んでいたエルサレムとその民に近い将来起こる災いについて家族にも話していました。ある時、父は家族を連れて必要最低限のものだけを持ちエルサレムから脱出するように神様から導かれたと言い、荒れ野へ旅立つことになりました。旅の目的地はまだどことも知りません。そのように荒れ野を数日間旅したときの祈りの経験です。
この時の祈りの経験について考えると、ニーファイは少なくとも祈りについて次のことを理解し始めたのではないかと思います。
祈りの答えを受けるのに年齢は重要な要素ではない。
父だけが神様からの答えを受けられるのではなく、少なくとも自分自身に関わる事柄については、若くとも自分で神様から答えを受けることができる。
純粋な望み、熱心に求めることは、神様との個人的な会話の扉を開く。
ニーファイの祈り②:わたしには何ができますか
ニーファイは16節で自分の祈りが答えられた経験とその時に感じたことを兄たちに伝えました。つまり、お父さんが受けた啓示は本当に神様からのもので、それに従うことを決して恐れる必要がないこと、自分たち家族のこの旅が神様によって導かれていることなど、彼が祈りの経験から確信を得られたことを兄たちに伝えたのですが、兄たちは弟ニーファイの言うことには耳を貸そうとはしなかったようです。相変わらず、不満と疑いが心にあることが見て取れました。ニーファイはそのような態度の兄たちのことを悲しく、心配に思っていました。
この時の祈りから、以下が学びとれるかもしれません。
自分のためでだけでなく、他の誰かのために祈ることができる。
この時の祈りにも主の答えがありました。その祈りの答えから大切なことが学べます。
この主からの返答には、祈りについての3つの要素が示唆されています。それは「信仰」「へりくだった心」「熱心に求める」です。
これら3つの要素が一体何であるのか、これらの要素を持つ祈りとはどのようにささげられるものなのか、ということはまだ漠然としているような気がします。ニーファイの祈りへの主の答えの言葉を読み進めながら考えてみます。
ふむふむ。ここで旅の目的地が示されたのと同時に、神様が祝福を約束してくださっています。これは信じようとしない兄たちのことを心配していたニーファイにとっては、あきらめずに兄たちを励まそうという思いを再び駆り立てるものだったでしょう。
…?
…??
…???
ニーファイの祈りへの主の答えを読み進めながら、頭にどんどん?が浮かんできます。これは、ニーファイが「二人の(兄たち)の心がかたくななのを悲しく思い、二人のために主に叫び求めた」(1ニーファイ2:18)祈りだったはずです。
愛する兄たちのことを心配して、彼らの幸福を願ってした祈りの答えがこのようなものなら、何て希望のない答えだろうと思いました。「祈りは神様との会話」とよく言われますが、このニーファイの祈りと神様からの答えは何となく嚙み合わないチグハグなものに見えてしまいました。
そこで改めて読み返してみると、ニーファイが実際に何を祈り求めていたのかが書かれていないことに気づきました。しかし、祈りが神様との会話であるなら、その答えから最初の問いかけを想像してみることができるかもしれない、と思いました。啓示は祈りへの答えとして与えられます。言い換えれば、祈りが啓示として神様からの祈りの答えを引き出しているのです。
そう考えると、ニーファイがこの時、実際に何を求めて、そう求めたからこそ神様がこのように答えてくださったのだという「噛み合う会話」を想像することは、意味のある学びになるのではないかと感じられました。
そうして再度18-24節を読んでいくつかの要点を整理して考えました。
ニーファイの祈りについて書かれていること
ニーファイは兄たちのために祈った
主からの答えについて書かれていること
戒めに従順であることにより約束されている約束
自身や家族がその約束された祝福を得られるようになるために、ニーファイに与えられている役割
兄たち、兄たちや自分の子孫たちの不従順に対する警告
このように読み直してみると、主が祈りの答えとしてニーファイに対して、兄たちについてというよりはニーファイについて語りかけておられるように見えてきました。
主がまるでニーファイに次のように語りかけておられるように見えてきました。「あなたとあなたの家族が幸福に至る道をまっすぐに歩めるように、あなたにはあなた自身のなすべきことがありますよ。
だれも、人の選択の自由とその責任を侵害することはできません。兄たちや、あなたたちの子孫が今後何を選んでいくかは彼らが決めなければいけません。しかし、彼らが幸福に至る道を選択できるように、あなたの役割を果たすことで助けるということをあなたは選ぶことができますよ。」と。
ニーファイはもしかしたら次のように祈り求めていたのかもしれません。「兄たちのことが心配です。彼らを愛しています。彼らに幸せになってほしいです。『わたしは』どうすればいいでしょうか?『わたしには』何ができるでしょうか?」
その答えが、「あなたがたは、わたしの命令を守る限り栄えて、約束の地に導かれるであろう。…あなたはわたしの命令を守る限り、兄たちを治める者、教える者とされるであろう。」だったのです。
祈りとは…
祈りは誰かや何かを自分の思い通りに変えてもらえるように神様と交渉することではありません。まして、神様の御心を自分の利己的で近視眼的な思いに従わせようという試みであってはなりません。
このようにニーファイの祈りを理解すると、2:19の祈りの答えの冒頭で主がニーファイの「信仰」「へりくだった心」「熱心に求める」ことを褒められたことが、祈りの大切な側面であることがもっと理解できるような気がします。
ニーファイは信仰、つまり主を信頼する態度をもって祈りました。神様やイエス様の実在を信じる以上に、御二方が自分の祈りに答え、自分や兄たち、家族の幸福を願っておられ、何が兄や家族にっての最善の幸福に至る道なのかをご存じである、と信頼することです。
ニーファイはへりくだった心、つまり主の御心、最善の計らいを信頼して受け入れる決意をもって祈りました。自分の思いや願いによって主の御心を変えられると信じているかのようない態度ではありません。主の御心を含め、自分以外の何かを変えようとする祈りではなく、自分自身の選択の自由の行使の範囲に焦点を当て、自分が変わる強さを祈り求めることです。
ニーファイは熱心に、つまり正直に葛藤しながらしかし必死に真心から主に助けを求めながら祈りました。何が正しいかわかっていながら、「主の最善」とすぐに問題の改善を求めがちな人としての傾向とのギャップは誰にとっても多少なりともあるはずです。若いニーファイにとってもきっとそうでした。でも、その葛藤の中でもあきらめずに必死に主の答えを見出そう、受け入れよう、そのような自分を助けてくださる主を力の限り求めて祈っていたのだと思います。
祈りの答えを受け入れ、それに従う決意
この時の祈りの答えによって、ニーファイは腹をくくって主から示された家族の中での自分の役割を受け入れました。
その直後に困難なミッションを父から知らされたときにも「主が命じられたことを行います」と応え、それを成し遂げようと試行錯誤し失敗を繰り返す中で他の兄弟たちがあきらめそうになったときにも「主に従おうでありませんか、主が命じられたことを成し遂げましょう!」と何度も彼らを鼓舞しました。その後に続く長い荒れ野の旅の中でも、そのニーファイの家族に対する態度は一貫して揺るぎませんでした。
ニーファイは主の答えを大切にしました。それが主と家族を愛する最善の方法だと信じていました。
その後のニーファイの祈り
この後もニーファイの祈りについて一つ一つ学んでいきました。例えば、
ニーファイの祈り③:1ニーファイ7章16-18節
ニーファイの祈り④:1ニーファイ10章17節、11章1節
ニーファイの祈り⑤:1ニーファイ17章7-11節
ニーファイの祈り⑥:1ニーファイ18章1-4節
ニーファイの祈り⑦:1ニーファイ18章15-16節、21-22節
これらの実際のニーファイの祈りの経験からニーファイ自身が「神は正しく祈り求めるなら惜しみなく与えてくださる」ということを全身全霊で知るようになりました。
わたしもこれらのニーファイの祈りの経験から改めて学んだ祈りとその答えについての大切な真理と、最初に見つけた関連聖句(詳しくは前の記事を読んでください)を結び付けてさらに理解が深まったと感じました。
わたしも天のお父様とイエス様が、どんな時にでも祈りに答えを与えてくださるという確信を持っています。それはニーファイのように自分自身のこれまでの祈りの経験からくる確信です。ニーファイとわたしとでは直面した困難や経験した出来事に大きな違いはありますが、わたしもこれまでの人生でニーファイと同じようなことを神様から教えていただいてきたな、と感謝しました。
わたしがニーファイと同じように学んできた「求め方のコツ」
最近、友人から「祈りが答えられないと感じることはある?」という質問を受けたことを前回書きました。実はわたしのこの質問への答えは「ありません」でした。本当に主はすべての祈りに答えてくださっていると感じてきました。それはあなたの祈りは答えられないとしても、わたしには答えてくださる、という意味ではありません。
ニーファイが学んできたように、答えを受けるには「求め方」がある、ということをわたしは学んできたのだと思います。
その「求め方」のコツは、最終的な結果を求めながらも、ニーファイがそのほとんどの祈りでそうしてきたように、プロセスを願い求めることです。
わたしにとって、ニーファイの祈りから学んだことを実際の祈りの言葉に変換するなら、例えばこのような祈りになります。
〇〇のために、わたしには何ができますか?
(困難な状況が)〇〇となるように助けてください。しかし、もしそれが今すぐかなえられることが御心でないなら、(堪え忍ぶ強さを・道のりに喜びや感謝を見出す心をetc..)持てるように助けてください。
真実であると知ることができるように助けてください。しかし、それを確信できるまで、信じたいという望みから始められるように助けてください。
まずは何から始めればよいでしょうか?次に何をすればよいでしょうか?
このような祈りは、文字通りすべて答えられてきました。小さなささやきや印象、振り返るときにやっと気づくことのできる助けを通して主はすべての祈りに答えてくださいます。これらすべて答えられてきた毎日の小さな祈りの経験を通して、イエス様が「求める者には惜しみなく与えられる御方」であることを見出すことができます。
さて、今週はここまでにします。
みなさんは今週の質問からどのような答え、どのようなイエス様を見出しましたか?
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