ニーファイ第2書6-10章:散乱と集合、贖い主〔質問を尋ねる②〕
前回の記事では、ニーファイの弟ヤコブが旧約の預言者イザヤの言葉を民に教えることで、彼らのために約束された「聖約」について知らせようとしていることに注目し、「聖約」について質問を尋ねることを学習の取り掛かりとしました。前回記事をまだ読んでいない方はこちらからどうぞ。
まずは、ヤコブが「聖約」について知らせることを意図して引用したイザヤの言葉が記されている2ニーファイ6-8章を次の質問を念頭に再読しました。
主はイスラエルの家にどのようなことを約束しておられるだろう?
主がイスラエルに聖約されたこと:再び帰ってくる
その中で、特に重要で一貫した、関連性のある約束(聖約)だと思われる箇所にしるしをつけました。以下にしるしをつけた聖文の箇所を並べてみます。
しるしをつけて抜き出した箇所から、自分の言葉でイスラエルの家に対する主の聖約を要約してみます。このように文字にして学んだことやそのプロセスを要約すると、自分の中の理解や関連性が明確になりスッキリしますのでお勧めです。
イスラエルの家は、当初意図されていたような麗しい、喜ばしい状態に戻される。帰ってくる。
「帰ってくる」ための前提:イスラエルは自らの選びにより散らされる
2ニーファイ6:7-8で引用したイザヤの預言について、次のように言及しています。
これはいわゆる「バビロン捕囚」についてヤコブが語っています。リーハイが主の正しい道を歩んでいなかったエルサレム(ユダ王国)の民に悔い改めるよう働きかけ、しかし拒まれて命を狙われるような状況になってしまったためエルサレムを脱出して約束の地に向かうように命じられたのが紀元前600年ごろでした。当時のユダヤ人たちは預言者たちの警告に対して非常に楽観的でした。つまり、聞く耳を持たなかったわけですね。しかし、リーハイの警告から間もなくバビロニアの侵略を受け、生き残った人々はバビロンに強制移住させられることになります。
この出来事は、リーハイ一家が荒れ野へ旅立った後に起こった出来事で、この時の彼らがそれを知り得たのはヤコブが言っているように主が「示された」(2ニーファイ6:8-9)からです。
「バビロン捕囚」以前の時代をさかのぼってみると、イスラエルの家の内10の部族はアッシリアの侵攻を受けて歴史上から姿を消しました。イスラエルの残りの2部族であったユダ王国の民も、バビロンから戻ってきてからも主の道を拒みあらゆる国々に散らされることになりました。
しかし、「主はシオンを慰め、すべてのその荒れた所を慰められ」(2ニーファイ8:3)、「主に贖われた者は帰ってくる」(2ニーファイ8:11)とあらかじめ主は聖約しておられました。
主がイスラエルに聖約されたこと:贖い主とその使命
イスラエルの民は自ら拒み背くことで散らされるにもかかわらず再び喜びのうちに集められるという聖約に関連して、もう一つヤコブがイザヤの預言から引用しているのは、彼らを癒し慰め再び帰って来られるように助ける「贖い主」「救い主」の役割を果たす存在についてです。特に2ニーファイ7章には次のようにあります。
イザヤは、苦難は神様が見捨てられたからではなく、むしろわたしたちが神様から離れていった結果に過ぎないと言っているわけです。(すべての苦難がわたしたち自身の誤った選択の結果、自業自得というわけではありませんが、それについてはまたの機会に学びましょう)
次のイザヤの言葉が印象的です。
この問いかけは逆説的に、イスラエルの民がどれほど罪を犯して主から離れ遠くに行こうとも主の御手の十分とどく範囲にいるのだという言うこと、どんなに強い力に囚われていようとも主にはそこから救い出す力が十分にあるのだと言っているようです。
結局、イスラエルの民はイザヤの言葉のような状態、捕らえられ侮られ軽んじられます。
しかし、イザヤは自分たちの背きのゆえに打たれているイスラエルの民が主の助けと救いを受けることをはっきりと預言しています。
しかし、これらのイザヤの言葉が不従順なイスラエルの民の罪の結果として被る苦難を預言しているように見える一方で、同じ聖句が彼らの重荷や辱めを身代わりとなってご自身にお受けになったイエス・キリストについての預言のようにも見えます。(二つの意味を含んだり、近い未来の出来事ともう少し遠い未来の出来事を同時に預言するのはイザヤの預言の特徴の一つです。)
事実イエス様はわたしたちを罪の結果から救うために、わたしたち全人類の罪の結果、悲しみや苦しみを引き受けて自分の痛みとしてくださいました。このイエス様がわたしたちのためにしてくださった「贖い」が届かないほど遠くにいる罪人はおらず、救い出せないほど強い鎖で捕われている罪人もいないことをイザヤは預言しています。
他の預言者の預言:エレミヤ
ここで主の聖約について考えていると、預言者イザヤに限らず聖典の他の箇所にも同じような約束や祝福が繰り返されている箇所があるのではないかと思い探してみることにしました。いくつかの聖句を見つけましたが、その中でも非常に心に残ったのが預言者エレミヤの言葉です。
エレミヤはヤコブの父リーハイと同時期にエルサレムで活躍した預言者です。エレミヤもエルサレムへの侵略、バビロン捕囚、イスラエルの散乱を警告しました。民が結局預言の通りの苦難を被ったのは、彼らが主と交わした聖約と主から受けた律法に不誠実で不従順であったことが結局の原因でした。そうして自ら主に背を向けて離れていった「聖約の民」に主はエレミヤを通して再びこのように「聖約」を確認しました。
まさに大きな散乱が目の前に迫っている時、言い換えれば最もかたくなで心が主から離れていた時の民に向けてさえ、この言葉をかけられた主の深い憐みと「聖約の民」への信頼、希望、愛に驚くばかりです。
今回の学習のプロセスの中でこの聖句に出会ったところで、もともとの2ニーファイ6-10章からは離れてどんどん尋ねたい質問がわいてきたためにまたしばらく寄り道をしたことはここでは詳しく書きませんが、でもこれが聖文研究のだいご味の一つです。読み進めることよりも導かれるままにどんどん寄り道して探求していきましょう。点と点が結びついて線になり、それらの線がさらに結びついて大きな、優しいイエス様が見えるようになってくる、という経験に出会うことでしょう。
引き続き、質問を尋ねる
さて、主がイスラエルの家のためにされた「聖約」がどのようなものだったのか整理できたところで、わたしは次の質問に導かれます。
イスラエルを再び集められるとはどのようなことなのだろう?
ヤコブがイザヤの言葉を引用するのを聞いていた民一人一人は、この約束をどのように自分自身に照らし合わせて理解したのだろう?
主から離れてしまっている「わたし」や「あなた」が、再び主のもとに集められるという約束を、主はどのように果たしてくださったのだろう?(あるいは、果たしてくださるのだろう?)
ここからヤコブはここまで自分がイザヤの預言を引用した意図に従い、詳しく解説していきます(2ニーファイ9-10章)。そして、その中でイスラエルの民のために「贖い主」が遣わされその使命を果たされること、その贖いが一体わたしたちにとってどのような意味のあることで、主が「聖約」を果たされることにどのように関連しているのかを解き明かしていきます。
ここまで学んできたことをもとに質問を問うことで、ここからヤコブの言葉がイエス様に焦点を当てられてギューッとズームインしていくことになります。
さぁ、今日はここまでです。次回は「質問に答える」の記事です。この一連の学習とそれを自分自身に当てはめる中で、エレミヤが約束しているように「主に会う」という経験ができますように祈っています。
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