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自然体のわけ
もし、このタイトルを例えば、
【26年の研究結果】自然体の本当の意味とは?
なんて俗なものを付けてしまった暁には、僕にとって「不自然」極まりない。
度を越したアピールだと自覚しながら書くのは苦手だから、この文章においては、これが自然なタイトルと言える。また、この先は自然と不自然を比較して自然が良いという意見を言いたいわけでもなく、僕なりのただの表現でしかない。
あとは、僕が「特に言葉が好き」という意味を、「自然」の見地から説明したものとなっている。
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じゃんけんをするとき、僕は自然だ。
「自然体」をじゃんけんで説明すると、じゃんけんのことを意識して考えなくても手をグーかチョキかパーにして出して、相手との状況で勝敗が決まることも即座に判断がつく。無意識にも似た意味がある。
僕は、小説をあまり読んでこなかった。国語の教科書以外で、読んだ小説本を数えてみても二十冊程度しかない。二十六歳の今、最後に読んだのは自分の書いた文庫版の小説を試し読みしたくらいで、それを除けば覚えがない。おそらく四年以上前かもしれない。
読んできた内訳は、三島由紀夫が六冊、太宰治が五冊、安部公房が三冊(冊数は大体の記憶)と、何らかの偏りがあると言われてもしょうがない。
六年前、二十歳の頃「キッチン(著:吉本ばなな)」を読んでいた。通学中の僕は渋谷の山手線のプラットホームにいた。普段は、家にいればテレビゲームをして、外出時の移動中はスマートフォンで音楽を聴くか、動画を見ている。小説を読むという行為はじゃんけんとは違って不自然なことだった。
それは「小説を読む」という意識の皮を一枚被った上で、読んでいるからだ。読み進める上で、描かれている情景を浮かべたり、話の流れを整理したりと、全て楽ではない。
そんな中で、文章を読んだときに突然涙が出てきた。これまでキッチンを読み進めて、主人公を想像として頭に描き上げてきたような種とは別の方向から、切なげな女性像の一部が明確に心に響いたからだった。(書いてみて、なんて簡潔な表現が難しい状況だと今改めて感じた)
僕は小説を読んでいて感銘を受けたときは、本を一度閉じて噛み締める。余韻が頭の中で五分か十分、そこで鳴り続け、その反響に自分の感覚を委ねるのが心地良いからだ。
この時、小説を読むという不自然な物事のなかで、思わず涙した表現の「自然さ」が心の隙に入り込んできた。僕は特に「言葉」というジャンルではこうしたことに敏感な方だ。
だから小説を読むのは苦手だけど言葉は好き。美意識のレンズに映った言葉に対して、ピントを調節しながら反芻する時間が僕にとって「過度な幸福感のない日常的な幸せ」だと言える。
けれども、常に言葉の善し悪しを考えているわけにはいかない。自分の美意識に窒息させられるのは、芸術家の本望だけれど、社会に生きる人間にはただ不向きなのだと分かったから。
「好きなことだけをして生きていける人生」に出来るとは思っていないし、この言葉自体が考えるほどに不自然な気もする。人生という言葉が矛盾の原因ではないかと。
じゃあ、人生にもっと肯定的になれれば、この言葉の矛盾を解く鍵になるのかもしれない。
時々でもいい、今の自然な言葉の感受性をもって、自分の人生くらいは彩りたい。