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プライデスト

僕はしばらく”ラジオ”のある生活を過ごしてきた。週末になればラジオのことばかり考えていた。

ラジオを聴くようになったきっかけは、今になっては思い出すことは出来ない。

自分の中の歴史ではそれくらい昔から始まって、続いていたものだった。

 ところで、ここ最近の僕は苦悩していた。呼ばれた気がしても、振り向くとそこにはいない。薬を飲むかどうかも迷うほどの仄かな頭痛に苛まれるような、意識すると遠退き、忘れようとすれば背後から覆われる影に気がつく。

その苦悩の種が、ラジオなのではないかと考えるようになると、いくつか分かってきたことがあった。

かつて、聴き始めてからしばらくの間はラジオを単純に楽しんでいた。流れに身を任せていた時期だった。

 時が経てば、子供から大人になっていき、僕の環境も考え方も、見方によっては随分変わったと言って良いほどになった。そんな僕が聴く今のラジオは、とても共感できるものではなくなっていた。そればかりか、聴いているのが苦痛なほどにつまらなくなってしまっていた。

 ラジオは僕の考えを理解しようなどとはしない。それどころか否定、非難されるようになった。そんなラジオが身近に置かれた生活。週末に流れるその音はいつも同じ調子で、同じ価値観を垂れ流している。赤子のよだれには可愛げを感じても、このラジオのそれは異臭すら優し過ぎた表現だ。

僕は考え直した。あまりに長くそばに置いていたから、妙な愛着が纏わりついて、身近に置くものの何たるかを、その本質を見失っていたのかもしれない。

 僕は、あまりに人の話を聴かないそれを”ラジオ”と名付けた。

 こうした苦悩が続いたある日、僕は覚悟を決めて、ラジオを窓の外にぶん投げた。重厚な破裂音が頬を揺らして、二秒も経たないうちに今度はさっきより少し軽い金属混じりの破裂音が聞こえた。回転しながらガラスを突き破ったラジオを見た時、窓を開けるくらいの準備はした方が良かったということが咄嗟に脳裏を過った。

 ラジオの存在から解放され、僕は安堵した。もしかしたらラジオが地面に落ちた時、周囲の誰かを同時に傷つけてしまったかもしれない。けれど、僕は窓から顔を出して確かめる気にもなれないほどに疲れていた。もちろん、ラジオが今どんな状態になっているかも分からない。知りたくもない。

 僕は部屋に一人きり。これで自分の奏でる価値観を調律することに集中出来るような気がしている。もう、ラジオという雑音が僕の繊細な心をかき乱すことはないからだ。

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