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ひとつくらいは、言ってみたい

元エンジニアらしく、この投稿は「タイムスタンプ」代わりということ。

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 せっかくnoteに登録しているのに、「ましろくま」さんと交互に投稿しているマガジン「せんべい刊」しか投稿がないのはいささか淋しい。

ここまで何度もnoteへの投稿内容を考えてみた。でも一向に考えがまとまらなかった。10代の頃からよく、考え過ぎと周囲から言われる僕のnoteに投稿しようと思っても出来ていないことに関して詳細を追究するべく、書いてみる。

【考えがまとまらない】

まず、前述した「せんべい刊」には以下のルールがある。

 ・交互に投稿する

 ・学生時代以前のエピソードについて書く

この二つ。簡単なようで、意外と深かった。ふと思い出したことからnoteに書こうかと考えたこともあったが、これはせんべい刊で書こうということで、見送られてきたものが多々ある。(ならば本当はもっと早くに投稿出来るのでは)

では、「今(または最近)思ったこと、思っていること書こう」となったところで問題が発生した。一向に答えめいたことが出てこない。堂々巡りの思考の渦に巻き込まれ、言葉に表す区切りが付けられなかった。悩み、心がけ、なんでも良いのかもしれない。けれども投稿するということは、その空間に残り続ける。例えば、一ヶ月間その考えに納得出来ていれば、思い返して削除することすら億劫になる可能性もある。それが僕はいざ考えだすと一分も留めておけない気質があった。よって、投稿に至らなかったのだ。もちろんこれは、僕が書きたいと思ったことが前提であるため、「物理的に書けるものはなんでも書けるじゃないか」ということではない。

物語はどうだろうか、と提案を受けたこともあった。しかしそれならば、既に刊行(敢行)を実現したウェブサイトがある(BCCKS:アトモスフィア - まちださつき)ため、そこで小説化するときに書きたい。すなわち、僕個人的には「note」的ではなかった。

唐突だが、僕は「言葉が特に好き」だということを生活の中でしばしば感じる。今このことについて深くは書かないが、それでいて自分の表現には自分であまり納得がいっていないものを人様に見せられないと思ってしまうことがある。

日頃の悩み・心がけという思考の整理もままならず、いざ表現の土台に納得がいっても、考えがまとまらない中でその経過を書くほどこと締まりのない文章は少々読むに堪えないのではなかろうか。

僕は承認欲求が人より少し高い面を自覚しているからこそ、上記のような人目を気にした上で「お出しする」ものをと考え過ぎてしまい、投稿出来ない。

「せんべい刊が書けるのに、なぜ他の投稿が難しいの?」

過去のエピソードは執筆において、その事実が主成分となるので、所どころに現在の僕が書いた内容には採点が甘いのだ。過去のエピソードが描けていれば、それで充分。そしてせんべい刊の発行当初は「ましろくま」さんと過去のエピソードを共有するツールとしてnoteが選ばれただけに過ぎず、「人様に云々」を気にしないように出来ることも助けとなっていたことが大きい。(発行後すぐの話し合いの上、公開する形になった)


ここまで書いてみて、思ったことがある。

例えば、人見知りの人が久しぶりに会う友達と顔を合わせて、「どうやって接していたっけ、どんな雰囲気で話してたっけ」と恥ずかしさも相まって思うように振る舞えないことがあったとして、

僕は「SNS見知り」なんだと思う。でも今回の投稿は、正にまとまらない考えを無理やり区切って書くことが出来たため、次に繋げられる気がしてきた。

こういう投稿を執筆しているとき、僕は書きながら次の内容を考えているのだけれど。本当は半分くらい書いてみた段階で、まだ公開してもないのに「意外と難しく考えないように出来そうじゃん」「あれ、そうなると今書いてるこの文章はもう上げなくて良くない?」なんて考えだす始末。

でも最後まで書いてみようと思って、ここまできた。いま実は、現実の生活で自分に自信を無くしている期間のようで、こんなとりとめのないことを書くことすらも、自分に評価を与えられずに躊躇っていた。僕は周りの人から見ると「落ち込みやすい人」なので、落ち込んでいない期間は自分でも自信が持てていることも自覚している。自分に自信が持てている頃の記憶から言わせれば、「なんでも書いてみればいいじゃん」というだけの話。

「僕は、これからもそんな僕と付き合っていくしかない」

この言葉は、今の自分のタイムスタンプとして、敢えてネガティブな表現にしておく。

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