桐谷香織の宇宙深海論 4
第4話 粒子じゃない
水族館の翌日から、学校はテスト返しと文化祭準備で悲喜こもごもといった様子だった。帰宅部の緋高はクラス企画の準備に駆り出され、お化け屋敷の看板に色を塗るうちに七月になった。
その間、香織とは連絡をとっていない。返ってきたテストのことや文化祭のことなど、話したいことはいくつもあったけれど、いつもトーク画面を開く前に手が止まった。香織のことを考えるたびに、向けられた拒絶がぐるぐると脳内を巡った。
時々廊下ですれ違えば、香織は「やっほ」と手を上げて緋高に笑いかけた。でもその笑顔は、放課後の教室やバスの中で見た笑顔とは、なにもかもが全く違って見えた。
「遠坂ー、早くそれ持ってこいって女子が言ってる」
文化祭の前日準備の日、暗幕を持って踊り場で立ちつくしていた緋高に、クラスメイトの男子が呼びかけた。「悪い」と謝って、緋高は慌てて階段を上る。汗ばむ腕に重い布が触れて鬱陶しい。
廊下奥の二年六組に辿りつくと、文化祭実行委員の女子に「やっと来た」とため息をつかれた。謝る間もなく、「それ、二人でここにつけてくんない?」と画鋲を渡される。
「なにぼーっとしてたんだ?」
緋高と一緒に廊下側の壁や窓を暗幕で隠しながら、先ほど階段で声をかけてきたクラスメイトが言った。「天文気象部の文化祭ポスター見てた」と答えると、ええっ、と大げさに声を上げる。
「遠坂、そういうの興味あんの」
「はあ、まあ」
「意外だわー。ってかテンモンキショーブってなにしてるわけ」
「俺もよく知らないけど、星の写真とか展示するって書いてあった」
本当は、香織が好きそうだなと思って見ていたのだ。一緒に回ろうと誘うどころか、他愛のないメッセージ一件送ることができないのに、である。
「まあ、遠坂って、意外と頭よさそうだもんな」
「ん? なにが?」
文脈が読めずに問いかけると、「テンモンキショーブだよ、テンモンキショーブ」とクラスメイトは笑った。
「なんかほら、そういうインドアーな部活って、頭いい人が興味もつイメージ。一組のキリタニサンとか」
突然香織の話を出されて、緋高は笑い出しそうになるのを必死でこらえた。「申し訳ないけど、あいつは全然インドアじゃないぞ」と、つい話したくなってしまう。
「キリタニサンもな、超美人なんだけどさあ。ちょっと怖いし」
「……そう?」
「そうじゃね。頭いい女子とか、俺らのこと馬鹿にしてそう。やっぱ女子はさ、悠木ちゃんみたいな子がいいわ。ふわふわ癒し系ーみたいな」
高槻のやつ、ほんとやってくれたよな、とぼやきながら、クラスメイトは暗幕の一番端に画鋲を刺した。「返してくる」とケースを持って、教室中央の女子の輪に向かっていく。
――頭のいい女子とか、嫌じゃない?
緋高は顔をしかめた。香織がそう思ってしまったことが悔しかったし、やはり自分はこういう時、「頭いいとか関係なくね?」と言えるような人間ではないのだと思うと、自分の不甲斐なさに落胆した。
翌日は絶好の文化祭日和だった。くっきりと濃い青空には入道雲が浮かんでいて、校門周辺の桜の木からは、延々と蝉の声が降ってきていた。
朝一の開会式を終え、午前中にお化け役のシフトをこなした緋高は、十三時過ぎには自由の身となって昇降口前のロータリーをうろついていた。
三年二組の焼きそばと三年四組のたこ焼きで迷う。どちらも結局ソースとマヨネーズなので、味はほとんど変わらない。後は、多少割高でもタコを食べたいかどうかだ。
まあタコは今日じゃなくてもいいか、と焼きそばに並んだところで、前方に見覚えのある背中を見つけた。三年一組のシャカシャカポテトで、ちょうど商品を受け取っている。
茶色がかった髪が振り返る。列沿いに歩いてきて、「あ」という顔をする。
「やっほ」
緋高を認めた香織は、なんでもない調子で手を上げた。「遠坂は焼きそばかあ」と寄ってきて、にししと笑う。一瞬伏せられた二重が、すぐに翻ってこちらを見上げる。
「クラスのシフト終わった?」
「ああ」
「じゃ私と一緒だ。さっさと終わって、お互いラッキーだったね」
じゃあまたね、と離れていこうとする香織に、慌てて「桐谷」と声をかける。
「あのさ、もしかしてこの後、一人?」
香織は千帆と回ると思っていた。もちろん、千帆はまだシフトがあるとか、自分だけ来たとか、他にも理由は考えられたけれど、それにしたって少し、元気がないように見えた。
「……まあ、そうだけど」
若干の沈黙の後、香織は気まずそうに答えた。「千帆はさ、ほら、高槻くんと回るから」と言って、斜め下に視線を落とす。
右肩にかけたスクールバッグで、メンダコが揺れる。眩しく鮮やかなピンク色に輝くそれは、同胞がいないことになにを思うだろう。
「ちょっと待ってて。昼一緒に食おう。あと、天文気象部の展示見に行こう」
口早に言うと、香織は首を傾げて緋高を見つめた。
「なんで。遠坂はいいの。クラスの人とかと回るでしょ」
「回らない。俺も桐谷とおんなじ。たまに、周りが全部遠ざかる感じがする。ここにいるのは俺じゃなくてもいいんだろうなって、思う時がある」
香織に会わない間、ずっと考えていたことを、思い切って口に出す。胸のうちの暗闇からすくい上げた思考に、丁寧に慎重に輪郭を与えていく。
例えば、四十人がすし詰めになった教室で、固い椅子に座っている時。言いたいことが言えていないのに、言わないことで場が上手く回っている時。相手の目が、自分ではなく自分の周りに漂うなにかを見ている時。
目には見えない深海の水は、自ら満たすこともあれば、勝手に満たされていくこともあった。観測されないということは、どこまでも自由で気楽だったけれど、常に不安がつきまとった。
「……わかった」
緋高の言葉にじっと耳を傾けていた香織は、列進んだよ、と言い残して、ロータリー中央のモニュメント脇に駆けていった。緋高は慌てて前に向き直り、自分の番がきたところで、焼きそばを二パック買った。
座れそうな場所はどこも一杯だったので、一度学校を抜け出し、運動場近くの公園まで歩いた。テストどうだった? と尋ねられ、「よかったよ」と緋高は答える。
「古典の活用は?」
「ちゃんとできた。教えてもらったところ、出てたよな」
そういえばちゃんとお礼を言っていなかったなと思って、「ありがとう」と声をかける。別に、と目を逸らしながら、「そもそもこっちがお礼だったんだし」と香織は付け加えた。
「ああ、そうじゃん。桐谷降ってきたんだった」
「今馬鹿にしたよね?」
「してないしてない」
いざ話してしまえば、なにということもない。他愛のない会話はそのままに、だらだらと園内の遊歩道を歩いて、空いていたベンチに並んで腰掛ける。
焼きそばを一パック渡すと、「えっ」と驚いて、香織は自分の財布を取り出した。「いらないからポテトくんない?」と断って、緋高はシャカシャカポテトに手を伸ばす。
「どうしよ、食べ切れるかな」
「余裕じゃね?」
「だって今日あんまお腹空いてないし。ポテトだけでいいやーと思って、もう結構食べちゃったし」
「ちゃんと食いなよ」と言いながら、女の子なんだなと考えた。自分はむしろ、足りるだろうかと心配していた。
「早く夏休みになんないかな」
「夏休みはいいけど、期末がな」
「……また教えてあげよっか?」
「いいの?」
つい食い気味で確認してしまう。その勢いに驚きつつ、香織は「いいよ」と苦笑した。
「前に言ったじゃん。遠坂と話してると楽しいって」
そりゃどうも、と平静を装うのに、緋高はずいぶんと苦労した。日除けのない屋外は異常なまでに暑く、食事を終えた二人は、そそくさと逃げるように来た道を戻った。
蝉の声を聞きながら校門を抜け、昇降口に入る。強い日差しから逃れられたことに安堵する緋高に、香織はスクールバッグから取り出したパンフレットを開いて見せた。
「ええっと、天文気象部だっけ。千帆が食品化学部だから、私は後でクッキー買いに行きたいな。遠坂は他に、行きたいところある?」
「特には」
「じゃあとりあえず、端から覗いてみよう」
香織はそう言って、一年生の教室がある南校舎側に向かって歩き出した。一年生はクラス制作、二年生はクラス企画、三年生は屋台というように、学年ごと出し物の系統が決まっているのが、この高校の文化祭の特徴だ。
香織が変に恥ずかしがったので、二年生のクラス企画は回らなかった。調理室で食品化学部の文化祭限定クッキーを買い、その足で文化部の展示がある西校舎を目指す。
西校舎は建物自体が奥まった場所にあるせいか、廊下を進めば進むほど、辺りの喧騒は凪いでいった。一階の会議室で文芸部の部誌を買った後は、美術部員に似顔絵を描いてもらい、生物部の展示を見て、天文気象部は二階の一番奥の教室だった。
入り口の長い幕をくぐって足を踏み入れると、部屋全体が黒かった。緋高のクラスのお化け屋敷と同じように、教室中の壁が暗幕で覆われているのだ。
同じく黒いパネルに掲示された写真が、白い蛍光灯の下に浮かび上がっている。ほとんどが月の写真で、ぼんやりとした写りのものもあれば、クレーターまでくっきりと写ったものもある。
それらに紛れて数枚、星の写真があった。一番目立つ、漆黒に無数の光が散りばめられた作品の前で、緋高は思わず立ち止まる。
「すげえ。写真家が撮ったみたい。こういうのってどうやって撮るんだ?」
「一眼だよね。絞りは開いて、フォーカスはマニュアルで……こんなによく写ってるってことは、冬の田舎かな。いいなあ」
やはり香織は、星も好きなようだ。写真の知識も多少あるらしい。どこまでも裏切らないなと思わず笑ったところで、視界の端に一枚のポスターが映る。
言うか、言わないか。ほんの一瞬、天秤が揺れる。また傷つくことになるかもしれないという恐怖はしかし、『だってそこにあるじゃないか』という自分の声に押し込められた。
だってそこに、あるじゃないか。目を逸らしてどうする。自分の気持ちの観測を、自分自身が怠ってなんになる。
「桐谷、ペルセウス座流星群って知ってる?」
掠れずに、震えずに、淡々と言葉を紡げたのは奇跡だった。そんな奇跡など全く知らない顔で、香織は「もちろん」とあっさりうなずく。
「今年の極大は八月十二日二十三時」
「マジか。そこまで調査済みか」
「まあね。それこそ、去年学校でも観測会やってなかった?」
あ、ポスターあるじゃん、と気づく香織に、「一緒に観に行かない?」と声をかける。
「観測会じゃなくて、二人で」
アーモンド型の目に戸惑ったようなゆらめきがよぎる。困らせているなと思うと、胸が苦しかった。
「……遠坂ってさ、その、」
香織はためらいがちに口を開いた後、「やっぱいいや」と言葉を切った。なにを言われるか見当がついてしまった緋高は、続きを聞かなくて済んだことにひそかに安堵する。
「いいよ。観にいこっか」
グラウンド奥の河原とか、意外とよく観えるんだよ。
そう言って歩き出した香織に続いて、教室を出る。冷え冷えとした蛍光灯に慣れていた目を、窓から差し込む西陽が突き刺した。
――十六時半です。一般の方の参加は十七時までとなります。本日はご来場いただき、誠にありがとうございました。残り時間わずかとなりましたが、引き続き文化祭をお楽しみください。
「もうそんな時間かあ」
放送を聞いた香織が、窓際で立ち止まる。学校西側の路地には、笑い合いながら帰路につく保護者や他校生の姿が見えた。
十七時に一般参加者が帰った後は、一度ホームルームがあり、十八時からグラウンドでクラス対抗のミニゲーム大会となる。
香織よりひと足先に歩き出した緋高は、渡り廊下上の連絡通路にさしかかったところで、思わず足を止めた。曲がった先、人気の少ない廊下の奥で、カップルがキスをしていたからだ。
げ、と反射で眉をひそめてから、二人の顔を認識して目を見開く。
「待った。俺やっぱり、もう少し天文気象部見たいかも」
「え?」
小声で言いつつ咄嗟に方向転換を試みたが、遅かった。緋高の言葉に反応しきれなかった香織が、廊下を曲がってしまう。瞬間、びくっと肩を振るわせて、すぐに後退りをして戻ってくる。
「桐谷、」
緋高が呼びかけても、香織は答えなかった。ただじっと前を見つめて、立ち尽くしている。固まったままの表情筋は、彼女が目にしたものを雄弁に語った。
香織は見てしまったのだ。よく知ったショートボブとスクールバッグに揺れるメンダコを。親友とキスをする、自分の想い人の姿を。
「桐谷」
もう一度呼びかけてようやく、香織は視線を上げた。呆然とした瞳がこちらを捉える。そこに浮かんだ痛みと苦しみが、細い針となって緋高の心臓を突き刺していく。
私たちは、粒子じゃないから。
やがてゆっくりと動いた小さな口元から、緋高は目を離すことができなかった。ここで目を逸らしたら、香織はきっと、今度こそ本当に、暗い海の底に消えてしまうと思った。
「私たちは粒子じゃないから、誰にも観測されなくても、本当は消えちゃったりしない。自分の目に見えないところにも世界は存在してて、現象はもう定まってて、」
「……そうだな」
それは、どう嘆いても変えることのできない世界の理だ。確かな存在の代償に、逃げることも隠れることも叶わなくなった、無邪気で残酷な大海原。
「ちゃんと、わかってるつもりだった。でもやっぱり、信じられてなかった。この目で見なきゃ、わかんなかったよ」
初めて見る香織の涙は、夕日に照らされてオレンジ色に輝いていた。じっと肩を震わせる香織の横で、緋高はただ、青い顔をして立ち尽くす。
速いような、遅いような、奇妙な速度で時間は過ぎた。やがて放送が十七時を告げると、香織は突然顔を上げた。
「行こう」
真っ赤に腫れた目はそのままに、廊下を曲がって歩き出す。いつも通りにまっすぐ伸びた背中は未だ、確かな悲鳴を上げていた。
「桐谷、」
弾かれたように、緋高は前方に手を伸ばした。しかし、香織の「来ないで」という鋭い叫びが、その動きを固まらせた。
「こういう時に近づいてくる人のこと、嫌い。私、遠坂のことまで嫌いになりたくない」
顔が歪む。胸が軋む。緋高は宙に縫い止められていた手をゆっくりと下ろした。香織は我に返って緋高を見上げ、再び泣き出しそうな顔をした。
「ごめん」
消え入るような声でつぶやいて、香織は駆け出した。その後のミニゲーム大会でどんなにグラウンドを見回しても、香織の姿を見つけることはできなかった。
第5話 宇宙のかたち
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