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桐谷香織の宇宙深海論 2

第2話 コペルニクスは転回する

 ――遠坂は問題が全く解けないわけじゃないんだから、基礎的なところをしっかり復習しよう。古典なら活用、数学や物理なら公式、英語なら構文とか単語のスペル、みたいなね。あれでしょ、表とか見るの、苦手なタイプでしょう?
 中間考査に向けた香織のアドバイスは、驚くほど的確だった。確かに緋高は、細かいことを覚えるのが苦手である。特に、表や図を見ると、目が滑るばかりで全く頭に入ってこない。
 そんな時香織は、緋高がつまずいている部分を文章にまとめ直したり、コペンハーゲン解釈の時のように例え話を使って解説したりした。
「まあこんなもんじゃないの? 後は苦手なところをもう一回確認して、夜しっかり寝れば大丈夫」
 中間考査前日、月曜日の十七時五十分、香織はにっこり笑ってそう言った。「ちょっと早いけどもう帰ろうか」と席を立ち、少し歩いてから、のろのろと問題集を閉じる緋高を不思議そうに見つめる。
「どうしたの? もしかして緊張してる?」
「……そうかも」
 緋高は確かに、朝からずっと緊張していた。うっすら痛いような気がする腹のせいで、考査前日という大事な日にも関わらず、どの授業もどこか上の空だった。
 もちろんそれは、目前に迫った中間考査のせいではない。放課後の勉強会のお陰で、それに関しては、わりあい落ち着いて構えることができていた。問題はむしろ今、この時にある。
 用意してきたセリフを言うだけのことが、こんなに難しいとは。
 緋高はポケットの中のスマートフォンを気にしながら、自分が今までどうやって恋愛をしてきたかを思い出していた。中学三年生の時に、半年だけ同じクラスの女子と付き合ったことがある。
 告白は相手からだったし、デートに自分から誘ったことなど一度もなかった。結構ちゃんと好きだったのでフラれた時は落ち込んだが、それも当然だったと今さら気づく。
「ねえ、行こうよ」
 こちらの心中など知る由もない香織が、ドアのところでくるりと振り向いた。茶色がかったセミロングが華やかになびいて、緋高の視線を惹きつける。
 ああ、と返事をして教室を出た。考査一週間前から部活動は禁止なので、夕方の校舎は普段よりも静かだ。運動部の掛け声も、吹奏楽部のトランペットも、聞こえない。
 ほの暗いリノリウムの廊下を歩きながら、「最近天気悪くて、嫌になっちゃう」と香織は言った。ぐっと伸びをして首を回し、結構凝るんだよね、と不快そうな顔をする。
「……おばあちゃんじゃん」
「はあっ?」
 少し頬を膨らませながら、香織はおどけて怒ってみせた。その顔が、次の瞬間明るく笑う。ぱっと空気が和んで、それを見た自分の肩の強張りも解けていく。
 緊張していても仕方がないよなと、緋高の口元も緩んでいた。
「俺さ」
「ん?」
「最近魚に興味あるんだよね」
「なにそれ、意外なんだけど」
 意外で当然だ。真っ赤な嘘である。
「桐谷は魚とか詳しい?」
 精一杯平静を装って尋ねると、香織は予想通り肯定した。海の魚、特に深海魚が好きなんだと、流れるように語り始める。その声を聞きながら靴を履き替え、校舎を出る。
 雲に覆われた空からは、ぱらぱらと小さい水滴が降ってきていた。傘をさそうか、ちょうど迷うくらいの雨だ。隣で同じように迷っていた香織が「いいや、行っちゃえ」と一歩踏み出したところで、緋高はその背中に声をかける。
「中間考査が終わったらさ、水族館行かない?」
 振り向いた香織は、ぱっちりと目を開いて緋高を見た。
「水族館?」
「そう。よければ、一緒に」
 赤くなった顔を誤魔化したくて、緋高は急いでポケットからスマートフォンを取り出した。事前に調べておいたホームページを香織に見せる。
「電車とバスで行けるところなんだ。少し遠いけど結構広くて、イルカショーとかもやってる。深海コーナーも多分ある。一人で行ってもいいんだけど、桐谷は色々詳しいから、一緒に来てくれたら、その……楽しいかなって」
 語尾がもごもごと不明瞭になってしまって、こりゃバレたな、と直感した。スマートフォンの画面に降る水の跡が、着実に増えていく。どうしても顔を上げられない。
 香織はしばらく、なにも言わなかった。その沈黙に耐えながら、断られるだろうかと考える。断られても、なにもおかしなことはない。
 だって香織は、あの高槻透のことが好きなのだから。
 サッカー部二年の高槻透は、男女問わずかなりの人気者として有名だ。緋高も去年、合同の体育で話したことがある。明るく気さくで、嫌味のない爽やかなやつだった。
 廊下ですれ違えば彼の周りにはいつも人が集まっていて、遠目に見ても、クラスの中心にいるような人間だとすぐにわかった。昼休みのたびにわざわざ一人になって弁当を食べるような自分とは、なにもかもが正反対である。
 勝てるだなんて、最初から考えてもいない。ただ、中間考査に向けた勉強会が終わって、このままなにもせずに香織との接点がなくなってしまうのが惜しかった。
 むしろ断ってもらった方がいいのかもしれない――そう考え出したところで、香織は「わかった」と口を開いた。「えっ」と思わず声を上げた緋高を、不思議そうな顔で見上げてくる。
「私、水族館久しぶり。楽しみにしてるね」
 その前にテストだからね、と念を押して、香織は歩き出した。緋高も一歩踏み出して、まっすぐに伸びた背中を追いかける。
「桐谷、本当にいいの?」
「なにが?」
「水族館」
「なんで駄目なの。一緒に遊びにいくだけでしょ」
 私も遠坂と話してると楽しいもん。
 緋高は一瞬、自分の耳を疑った。聞き返すこともできないので、鼓膜に届いた響きを必死に手繰り寄せて反復する。
 今桐谷は、楽しいって言ったか? 俺と話していて楽しいと。
 すぐに追いつきそうだった足並みを、慌てて遅らせた。いくら自分の気持ちがバレているかもしれないからといって、にやけた口角だけは絶対に見せるわけにはいかなかった。
「そうだ」
 香織が思い出したように振り返ったので、緋高は勢いよく自分の口元を手で隠した。「なに」と応じる声が、くぐもって少しぶっきらぼうになる。
「ライン交換する?」
 この時ほど、友だち追加用の二次元バーコードの場所がわからなくなったことはない。焦れば焦るほど目が滑って、うなじに当たる雨粒がずいぶんと冷たかった。

 翌日から始まった中間考査では、緋高は確かな手応えを感じていた。わかる問題がぐっと増えた上に、わからない問題も、なぜわからないのか見当がつくようになったと実感する。
 香織のことが気になり出してからは正直、放課後の勉強会は勉強どころではなかった。それでも、あの朗らかな声で解説された問題は、よく印象に残っていた。
【数学オッケー】
 金曜日の昼、懸念していた数学のテストを無事終えた緋高は、中庭のベンチで弁当を広げながら香織にラインを送った。連絡先を交換できたことが嬉しくて、一教科終わるごとに、つい出来を報告してしまう。
 返信がくるのは、だいたい夜だ。自分が昼間ぽつぽつと送った数件の文面に対して、【いいじゃん】だとか【あれは難しかったよ】だとか、ひと言程度の総評が返ってくる。
 スタンプはあまり使わない主義らしい。そっけない文面はいかにも香織らしいが、もし自分が高槻だったら彼女もはしゃぐのだろうかと考えると、少し落ち込む。
 緋高は自分が送った文字をしばらく見つめてから、スマートフォンをポケットにしまった。弁当の蓋を開け、右上の隅に茶色い肉塊を見つける。よしよし、と心の中でつぶやく。
 いつもはランダムに姿を現す唐揚げは、この中間考査期間中は毎日、弁当箱の右上に鎮座している。母は絶対に、自分の好物をわかっている。
 だったら毎日入れてくれよと思いながら、緋高は唐揚げを最初に食べるべきか最後に食べるべきかで箸先を迷わせた。『好物は先に食べた方がいい』というのは、緋高が背中の痛みと引き換えに得た、貴重な学びである。
 なんだかんだ迷いつつ、火水木は最後に食べた。一度くらい、新しい習慣に手を伸ばしてみるのも悪くない。
 手を合わせて、プラスチックの箸で唐揚げを掴む。どうせなら一気にいこうと大きく口を開けたところで、聞き慣れた声に名前を呼ばれた。
「遠坂」
「えっ」
 ぽろ、と箸からこぼれた唐揚げが、相変わらず雑草だらけの地面を転がっていった。少し跳ねるような動きが、茶色いローファーにぶつかって止まる。
 わっと小さな悲鳴の後に、前回と全く同じ動きでローファーが持ち上がった。「ごめん、私タイミング悪かったね」という焦った声が、前方から聞こえてくる。
「桐谷」
「やっほ。数学、ちゃんとできたみたいでよかった」
 小さく片手を上げた香織は、にしし、と機嫌よさそうに前歯を見せた。その隣には、先日も一緒にいた、癖っぽいショートボブの女子が立っている。
「遠坂緋高くんっていうんだってね」
 おっとりと柔らかい声で言って、ショートボブの女子は低い位置から緋高を見上げた。垂れ気味の大きな目に見つめられて、少し緊張する。
「悠木千帆です。よろしくね」
「ああ、うん。よろしく」
 タヌキ顔、とでもいうのだろうか。目尻と同じように少し垂れた眉が、優しい印象をつくりだしている。どうやら彼女が、高槻と付き合っている香織の親友らしい。
「最近よく、香織から話を聞くから。もう背中は大丈夫?」
「あ、そっちはもう全然」
「よかった。香織に勉強教わってたんでしょ? テスト、ばっちりだったんじゃない?」
「まあ、お陰様で」
「千帆ー、食べよーよっ」
 ひと足先に腰を下ろした香織に呼ばれて、千帆は「うん」と返事をした。くるりと踵を返して、隣のベンチに駆けていく。
「香織ママのお弁当、今日もおいしそう」
「冷食だって。毎朝作ってる千帆の方がすごいと思う」
「私のはほら、趣味だから」
 分厚い雲のせいで人の少ない中庭では、二人の会話がよく聞こえた。唐揚げを地面から拾い上げて蓋に置き、緋高もようやく、本日ひと口目の昼食にありつく。
 午後一番の枠は文系科目が集中するので、理系の緋高は空き時間になる。弁当を食べたら待機用の教室に移動して時間をつぶし、その後は化学だ。
 テストが始まる前に、周期表をもう一度見返した方がいいだろうか。
 面倒だなと思いながら、唐揚げの下に敷いてあったレタスを飲み下す。栄養バランスを気にしてなのか、ミニトマトと一緒に毎度、申し訳程度に登場する厄介者だ。
 だから、唐揚げを毎日入れてくれよな――もう一度考えたところで、着信音が聞こえた。顔を上げ、辺りを見回すと、「はい」と電話を取ったのは千帆だった。
「もしもし。どうしたの? ……うん、うん。それで? ……ええ、今から? 私、中庭でお昼食べてるんだけどな」
 困ったようなセリフとは裏腹に、千帆の表情は緩んでいた。「ちょっと待ってて」と電話口に呼びかけてから、小声でなにか、香織に話しかける。
 香織はうんうんとうなずいて、「行ってきなよ」と千帆に笑いかけた。ありがとうっ、と嬉しそうに礼を述べ、千帆はまたスマートフォンに戻っていく。
「もしもし透くん? お待たせ。香織がいいって言うから、今から行くね」
 まだ食べかけの弁当に蓋をしながらそう言って、千帆は電話を切った。素早く荷物をまとめ、「また月曜日ね」と香織に手を振り、あっという間に中庭を去っていく。
 その後ろ姿が見えなくなった瞬間、にこにこと手を振っていた香織の横顔があからさまに曇った。はあ、と小さくため息をついて、少しうつむきがちに弁当をつつく。
「桐谷」
 緋高が恐る恐る声をかけると、香織は弁当に視線をやったまま、唇を尖らせて「なに?」と応じた。
「そっち行っていい?」
「……お好きにどうぞ」
 緋高は荷物をまとめて立ち上がり、先ほどまで千帆がいた場所に腰を下ろした。尻をずらして緋高との距離をさりげなく広げた香織は、ピンクの箸で黙々と、口に米を運び続けた。
「なんていうか、その。ドンマイ」
 一部始終を見ていた以上、なにも言わないわけにもいかず、緋高は苦し紛れに励ましの言葉を口にした。ふっと吹き出した香織が、ありがとう、とこちらを見る。
「でも多分、遠坂は勘違いしてるよ」
「え、なにが?」
「私が高槻くんのことで落ち込んでると思ってるでしょ」
「違うの?」
 思わず香織の顔を見つめ返す。千帆とは違う、すっきりとしたカーブを描く目尻。
「違うよ。千帆の方だよ」
 「最近、多いんだよね」と寂しげに言って、香織は自分の弁当に戻っていった。
「私といても、電話一本ですぐに高槻くんのところに行っちゃう。先に一緒にいるのは私なのに」
「……女子って複雑なんだな」
「まあね。『女子』で括られるの、私はあんまり好きじゃないけど」
 一瞬、ぴりっと刺すような空気を感じて、緋高はすぐに謝った。「いいよ。事実、そうなんだろうし」と答えた香織は、おもむろに膝に弁当箱を置いて、大きく伸びをする。
「まあ仕方ないよね。誰だって自分の恋愛が一番でしょ。そういう千帆も、私好きだし」
 もういいかな、と弁当箱を片付ける香織に、緋高は気になっていたことを尋ねた。
「悠木ってさ、」
「ん?」
「知ってるわけ? その、桐谷が高槻のこと好きだってこと」
 香織の想いを知った上での振る舞いだとしたら、あんまりだと思ったのだ。本人がいくら否定したところで、行先が自分の片想い相手だという事実が、堪えていないわけがない。
「知らないに決まってるじゃん」
 薄く笑って、香織は答えた。広い二重幅が伏せられ、まぶたのふくらみが鮮明になる。顔立ちに対して少しあどけない頬の上で、くるんと上向きのまつ毛がわずかに震える。
「私と千帆と高槻くんってね、去年同じクラスだったの。入学式の日に二人揃って一目惚れして、『ズルはなしだよ』って約束してさ。千帆と高槻くんが付き合った時はもちろん悲しかったけど、『私はスッパリ諦めた!』って宣言しちゃったし」
 私今、遠坂のことが好きってことになってるんだよ。
 そういたずらっぽく覗き込まれて、緋高は「はあっ?」と声を上げた。どう答えればいいんだと迷っているうちに、「利用してごめんね」とやけに真剣な声が返ってくる。
「私の気持ち、千帆にも高槻くんにも、絶対にバレるわけにはいかないんだ。可能性が観測された時点で一つに定まるんなら、観測されなければいいの。そう思ってないと、私、私の気持ちのこと、許せない」
 ――ああ、だからか。だから香織は、あの放課後の教室で、あんなに熱心に語ったのだ。
 緋高は必死で記憶を探った。細かいことを覚えられない脳みそが、『確かコだったぞ』と囁いてくる。まさかコッペパンなわけないしな、と思ったところで、ぱっとひらめく。
「コペルニクス回転、だっけ」
「コペンハーゲン解釈っ! まって、急に笑わせないで。前はちゃんと言えてたよね?」
 腹を抱えて上体を折り、香織は体を震わせた。「コペルニクスは転回するんだよ」と息も絶え絶えに付け加えて、その発言に自分でウケてしまったのか、再び大きく吹き出す。
「やばい、ツボった。助けて遠坂。責任取って」
「そんなこと言われたってなあ」
 正直、面白さがよくわからない緋高である。香織の頭の中には自分とは比べ物にならないほど多くの知識が入っているから、その内のどれかになにかががヒットしたのだろう。
「まあそういう、俺にはよくわかんないことに面白さを見出せるあたり、桐谷ってすごいよな」
「フォローの仕方が微妙すぎる」
「前に頭のいい女子がなんとかって言ってたけど、俺はいいと思う。なんたらかんたらっていうトカゲを追いかけて空から降ってくるあたりも、アニメみたいで面白いし」
「だからそれは、謝ったじゃん……そうだ、唐揚げっ」
 思い出したように叫んで、香織はがばりと顔を上げた。緋高の弁当箱の蓋を指差し、「また私、遠坂の唐揚げ食べれなくしちゃった」と眉尻を下げる。
「いや別に、俺そこまで唐揚げ好きじゃねーし」
「なんで。おいしいでしょ、唐揚げ」
「おいしいけども。……あの時はさ、桐谷が怪我しなくて、よかった」
 茶色がかった瞳に見つめられて数秒後、緋高はようやく、自分が妙に優しい顔をしていたことに気がついた。急いで視線を逸らし、「ジンメイ。人命の方が大事」と誤魔化す。
 しばらく待っても返事がないので、緋高は少しだけ顔の向きを元に戻し、横目で香織の様子を伺った。香織は上半身を屈めて膝に肘をつき、緋高とは反対方向に顔を背けていた。
 セミロングに遮られて、その表情は見えない。「桐谷?」と何度か呼びかけても、応える気配が全くない。
「桐谷」
 そっと肩をつつくと、香織は思いの外勢いよく振り向いた。「なっ、なに?」と慌てる顔が、うっすらと赤いような気がする。
「いやその……ごめん、急に触って」
 目の前の焦りと微熱が伝染する。ひどく悪いことをしたような気持ちになって、緋高はしどろもどろに謝った。「ごめん、私もぼーっとしてた」と口早に応えた香織は、突然慌ただしく荷物をまとめ始める。
「どうした?」
「教室行くの! 次のテスト、もう始まっちゃう時間でしょ」
「ん? いやでも、それって、」
「遠坂も遅れないようにしなよ。じゃあねっ」
 文系科目だから、俺も桐谷も関係なくね? と伝える前に、香織は脱兎のごとく駆け出した。取り残された緋高の頬を、一筋の冷たい風が撫でていく。
 雨のにおいを感じて、緋高は戸惑いながら弁当箱を片付けた。食べ時を逃した白米が三分の一ほど残っていたが、すまん、とつぶやいて蓋を閉める。
 緋高が中庭から渡り廊下に入ったところで、ちょうどぽつぽつと水滴が降り出した。あっという間に強くなった雨足は、大きな音としぶきを立てて視界を白く煙らせた。
 ぼんやりとその様子を眺めながら、『照れてる桐谷、可愛かったな』と思い返す。そう考えてからようやく、ああ、あれは照れていたのか、と納得する。
 そうか、桐谷も照れるのか。俺なんかの言葉で。
 全く脈なしでもないのかもな、という楽観的な思考が、ほんの一瞬脳裏を掠める。しかしすぐに、「絶対にバレるわけにはいかないんだ」と言った香織の横顔が蘇って、緋高は唇を引き結んだ。
 香織が、千帆にも高槻にも自分の気持ちを気取られまいと必死になっていることは、よくわかった。でもだったら、そんなの、いくらなんでも苦しすぎるのではないだろうか。
 人間は粒子ではないのだ。誰かに観測されようがされまいが、確かな形をもってこの世に存在してしまう。自分の気持ちは、他でもない自分自身が、いつも一番近くで観測している。
 ええっと、なんだっけ。コッペパンじゃなくて。
 正しい名前を思い出したいのに、「コペルニクスは転回するんだよ」という妙に流れのいいツッコミゼリフが、立ちどころに脳内をジャックする。
 そもそも転回ってどういう意味だ? と思考が飛び始めたので、緋高は諦めてスマートフォンを取り出した。画面をつけたところで、一時間ほど前に香織から通知があったことに気づく。
【今、中庭にいるでしょ】
 トーク画面を開いて、緋高は笑った。どこから見られていたのだろうかと、つい周囲を見回してしまう。「スマホ見て」と一言、さっき言ってくれれば聞けたのに。
 『俺の姿が見えたから中庭に来てくれたのかもしれない』という考えが、ひどく都合のいいものだということは、よくわかっていた。
 それでも、自分は今日、唐揚げを一個食べ損ねたのだから、ちょっとくらい勘違いで機嫌をよくしてもチャラになるはずだ。
 【なんとかかんとか転回ってなんだっけ?】と文字を打ち、緋高はスマートフォンをしまった。廊下に入るところで外靴を脱ぎ、靴下で少し滑りながらリノリウムを歩く。
 うるさく響く雨の音も、不思議と悪くないように感じた。上履きを履いて待機教室に移っても、緋高は周期表を確認しなかった。
 今大事なのは、そんなものではないような気がした。

第3話 深海みたいに

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