桐谷香織の宇宙深海論 1
【あらすじ】
五月、高校二年生の遠坂緋高が中庭で弁当を食べていると、木の上から一人の女の子が降ってきた。彼女の名前は桐谷香織。入学以来、全ての教科で学年一位を取り続けているとウワサの女子だった。
咄嗟に香織を受け止めた緋高は、お礼として勉強を教わることに。緋高は彼女に惹かれるが、香織は親友の彼氏に片想いをしていた。
中間考査を終え、水族館に出かけた後、二人は接点がないまま七月頭の文化祭を迎える。文化祭当日、勇気を出して香織に声をかける緋高。普段通り話せることに安堵したのも束の間、二人はとある光景を目撃してしまい……?
見ること・見られることの意味を問いながら恋の痛みを描いた、片想いラブストーリー。
第1話 ニホンカナヘビを追いかけて
ゴールデンウィークが明けると、降りそそぐ日差しはずいぶんと強い。右手に弁当袋を持った遠坂緋高は、日陰を求めて、中庭中央の枝振りのいいカシの木を目指していた。
授業が終わってすぐに飛び出してきたお陰で、場所は選び放題だった。自分の教室がある方とは反対、南校舎側のベンチに腰掛けて、緋高は弁当を開く。
気に入っている唐揚げを見つけて、『よっしゃ』と内心つぶやいた。冷凍食品がメインの弁当はいつも冷たいが、好きなおかずが入っていれば悪いものではない。
一人っ子の緋高は、好きなものは断然、最後に取っておくタイプである。手を合わせてから白米とハムカツを片付けている間に、ざわざわと辺りが騒がしくなってきた。
この時期の昼休み、中庭は、生徒たちから絶大な人気を誇っている。少し汗ばむくらいの気候に、まだ冷たい風が心地よい。
卵焼きを口に放り込んだ時、緋高の隣のベンチに、女子生徒二人組が座ってきた。他のベンチもすぐにいっぱいになったようだ。「空いてないね」なんて声も聞こえてくる。
その言葉に若干の優越感を抱きながら弁当を食べるのが、ここ最近の緋高の楽しみだった。自分でも性格が悪いと思ってはいるけれど、誰にも言わないのでよしとしている。
クラスに友人がいないわけではない。でも一年の頃から、弁当だけは一人で食べている。「ちょっとコンビニで買ってくるわー」とかなんとか、最初はあれこれ言い訳をしていた。
そのうちに『あいつはもう、昼にはいないやつ』という認識が出来上がって、特に誘われることもなくなった。女子ではないので、それで疎外感を感じることもない。
今年のクラス替えで仲良くなった人間は食堂組が多くて、もっと楽だった。今日も、チャイムが鳴るなり「五限遅れんなよー」と軽口を叩き合って、一目散に教室を出てきた。
四十人がすし詰めになった教室で固い椅子に座っていると、どうにも息苦しくて仕方がなくなる緋高である。四限終了のチャイムが鳴る二分前、秒針は絶対に遅延行為をしている。
緋高はそういう時、よくこの中庭のことを考える。昼食くらい一人で気ままに食べたいというのが、胸のうちに潜む正直な気持ちだった。もちろんこれも、誰にも言わないけれど。
吹きつけた風に、にわかに葉擦れの音が大きくなった。汗が乾いていくのを感じながら、白米の最後の一口を頬張る。咀嚼し、飲み込む。あとは唐揚げだけだ。
「ちょっと、香織?」
「大丈夫大丈夫」
プラスチックの箸で唐揚げを掴んだところで、右隣からミシ、と不思議な音が聞こえた。咄嗟に顔を向けると、癖っぽいショートボブの女子が、心配そうに上を見上げていた。
「危ないって」
「ヘーキヘーキ」
応えた声は、思ったよりも近くから聞こえてきた。緋高は首の向きを変えて、今度は自分の頭上を仰ぐ。
「え?」
「あっ」
見ないで!
叫ばれた瞬間に、緋高はぎゅっと目をつむった。『黒だ』と思う間もなく、「わ、わ、」と焦ったような声が響く。
「ごめん、なんとかくんっ」
切羽詰まった叫びに、このまま目をつむっていたらヤバイと本能が告げた。咄嗟にまぶたを開いた緋高は、眼前に広がる非日常的な光景に、鋭く息をのむ。
女の子が、降ってきていた。
一瞬の判断。緋高は唐揚げも弁当箱も放り出して、両手を大きく広げた。急にスローモーションになった視界で、茶色がかった髪が空へなびく。場違いにも見惚れてしまったせいで、衝撃への備えが疎かになる。
「いっっってえええええっ?」
背中に走った大きな痛みに、緋高は思わず叫んだ。脳がしびれて、脂汗が吹き出す。なんだ、なにが起こったんだ、と混乱する思考すら、あまりの痛みにかき消されていく。
「ごめんっ、大丈夫?」
腕の中で振り返った顔は、ずいぶんと美人だった。でも今は、そんなのはどうでもよかった。背中が痛い。痛すぎる。大丈夫か、俺の脊椎。
「大丈夫ですかっ?」
隣のベンチにいたショートボブの女子も寄ってきて、心配そうな顔でこちらを覗き込んだ。こっちは可愛い系だ。でもやっぱり、そんなのもどうでもよかった。
「痛い……重い……」
緋高のうめきに、美人の方がぱっと立ち上がった。生体由来の生温かさが遠ざかり、ようやく思い通りに息ができる。恐る恐る上体を起こして、手足が問題なく動くことに安堵する。
とにかく状況を把握しようと、緋高はしかめた顔のまま辺りを見回した。目の前には、申し訳なさそうに佇む女子生徒が二人。変わらぬ中庭のざわめきと、雑草ひしめく足元に転がる青色の弁当箱。
「あ、」
緋高は思わず声を上げて、美人の左足を指さしていた。「えっ」という声と共に、茶色いローファーが勢いよく持ち上がる。姿を見せる、平たくつぶれた、茶色いかたまり。
「俺の唐揚げ……」
多分、絶対に、それどころではなかった。しかし緋高の頭は、背中の痛みからの逃避先として、唐揚げを食べ損ねたことへの悲しみを選んだ。
唐揚げ。俺の唐揚げ。
考えれば考えるほど、味わい損ねた肉汁が脳裏をよぎる。
昔テレビで観た、サバンナの野生動物たちを思い出した。世界の厳しさを思えば、やはり好物は先に食べるべきだった――いつ誰に横取りされるかわからないし、いつ女の子が空から降ってくるかも、わからないのだから。
「本当にごめんなさい。あの、私の唐揚げ、いる?」
降ってきた女の子に尋ねられてようやく、緋高は自分が「唐揚げ、唐揚げ、」と未練たらしくつぶやいていたことに気がついた。はっと我に返って、「ああ、ええと」と言葉を探る。
「いらない、かな」
訪れたなんとも言えない沈黙に、緋高はへらりとあいまいに笑った。尋ねてきた女子生徒の方も、「あはは、そっかあ」とぎこちない笑いで返してくる。
あはは、あはは、と苦笑いを交わしあう。笑いながら、緋高は『この女子、どっかで見たことあるな』と考えた。多分同学年だ。そうだ、確か、香織って呼ばれてたっけ。
香織。うちの学年で香織と言ったら。
「あの、とりあえず、保健室に行った方がいいんじゃない……?」
収拾がつかなくなった空間に一石を投じたのは、ショートボブの女子だった。その瞬間、背中に焼けるような痛みが舞い戻ってきて、緋高はぐっと眉根を寄せた。
空から降ってきた女の子は、桐谷香織という名前だった。十六歳、A型。十一月十三日生まれのさそり座で、好きな食べ物はかまぼこ。身長は一六三センチ。
これは別に、緋高がわざわざ尋ねたプロフィールではない。あの日の放課後、香織が緋高の教室までやってきて、自己紹介として自主的に述べた情報である。
「本当にごめんなさい。大丈夫だった?」
がばりと勢いよく頭を下げた後、香織は不安げな表情で緋高を覗き込んできた。緋高はまだ若干痛みが残る背中をさすりながら、「はあ、まあ、」とあいまいに答えた。
「背中はまあ、このまま痛みがひけば大丈夫っぽいんだけど。ええっと、桐谷? なんで木になんか登ってたの」
純粋に気になって、緋高はつい質問していた。香織の肩が小さく跳ねたのを見て、これじゃあ責めてるみたいだったなと、ふいに気がつく。
「ごめん、全然怒ってるとかじゃなくて。普通に気になっただけで」
そう添えると、今度はあからさまにほっとした表情を見せた香織である。しかしまだなにか言いづらいのか、小さな唇がごにょごにょと要領を得ない感じで動き出す。
「ええっとね、私、ニホンカナヘビを追いかけてて、」
「ニホンカナヘビ?」
首を傾げる緋高に、香織は「ヘビじゃないのっ」と勢いよく顔を上げた。
「トカゲの仲間なの。尻尾が長くて、比較的背の低い木にはよく登るんだけど、あの子は上の方の枝まで登っていったから。珍しいなあと思って、つい」
緋高は香織の顔をまじまじと見返してしまった。アーモンド型の目に、つんと尖った鼻。血色のいい小さな唇をすっきりとした顎が囲んでいる。
茶色がかった髪は痛んでいるというわけでもなく、セミロングのストレートに整えられていた。とてもじゃないが、爬虫類を追って木登りをするようなお転婆には見えない。
「唐揚げも、本当にごめんね。食べたかったよね」
そう言われた瞬間、緋高は羞恥心で体が熱くなるのを感じた。
「いや、それは別に」
「でも最後の一個だったんでしょ」
「そうだけど」
「最後の一口って大事じゃない。『唐揚げ、唐揚げ』ってあんなに辛そうに言われたら、私、本当に申し訳なくなってきちゃって」
「それは唐揚げのせいじゃないっていうか」
辛かったのはまず間違いなく、心ではなく背中だ。突然の痛みと混乱に脳みそがバグを起こして、一時的に唐揚げに執着してしまっただけで。
そう伝えるよりも先に、香織は「なにか私にできることってある?」と口を開いた。緋高に受け止めてもらったことで自分は無傷だったので、お礼も兼ねて、ということらしい。
面倒くさそうだなと思って、初めは断った緋高である。しかし香織が唐揚げを盾に意外と粘ったので、結局は、これ以上その話をされたくない緋高が折れた。
そうして始まったのが、放課後の勉強会である。
「主体と客体の話をしよう」
気だるい午後の陽光が差し込む教室で、香織は得意げに言った。滔々と講釈を垂れる教師のように、黒板の前をうろついている。つんと尖った鼻の前で、人差し指が円を描く。
「今、喋っているのは誰?」
そう尋ねられて、緋高は古典のノートから顔を上げた。「桐谷でしょ」と答えると、香織はうんうんと首を縦に振って、満足そうに笑った。
「じゃあ、それを見ているのは?」
「俺だけど」
「そう。でね、この場合、主体が遠坂で、客体が私」
緋高は首を傾げた。行動を行っている香織が客体で、それをただ見ているだけの自分が主体、ということだ。
主体的という言葉があるように、『主』という文字にはなにか、積極性のようなものを感じる。染みついた感覚とのズレが、納得感の邪魔をする。
「逆じゃね?」
緋高が素直に口にした疑問に、香織の眉が「お、」と小さく持ち上がった。
「逆じゃない。だって、私を『見ている』のは、遠坂でしょ。見るっていうのは、受け身な行為じゃないの。それが結果を導く世界だって、あるんだから」
コペンハーゲン解釈って知ってる? と香織が続けたので、『これは長くなるぞ』と内心苦笑する緋高であった。弾んだ明るい声が、辺りの空気を震わせる。
「『粒子の位置や状態は観測されるまで特定できない』っていう、量子力学における解釈の一つなんだけどね。二重スリット実験っていう、面白い実験があって、」
「ごめん桐谷」
「なに?」
「ここの活用がわからねえ」
「ええ? これ、さっきのやつとほとんどおんなじなんだけどな」
ぱたぱたと近づいてきた香織は、緋高の問題集を覗き込んで不思議そうに首を傾げた。答えの冊子を見るでもなく解説を進めた後、「活用表覚えてる?」と訝しげな顔をする。
「ああ、あの呪文みたいなやつ」
「嫌な予感。一年のしょっぱなでやったのに」
「『あり、をり、はべり』くらいまでなら、まあ」
「そこはせめて『いまそかり』までいってほしかった」
ちなみにそれは、ラ行変格活用の動詞ね。
「……あったな、そんなの」
緋高の答えに、呆れたようなため息が香織の口からもれた。「一年間、よくやってこれたね」と言われたので「古典なんて勘だ」と返す。
唐揚げを盾に粘られた緋高はここ二週間ほど、五月末の中間考査に向けて、香織に勉強を教えてもらっていた。『香織』という名前に聞き覚えがあって尋ねたところ、やはり彼女は、『入学以来全ての教科で学年一位を取り続けている香織』だったからだ。
緋高は自分の成績に対して、特別危機感を覚えていたわけではなかった。しかし、ちょっと勘頼りだなあという自覚はあった。古典だけでなく、全ての科目においてである。
来年受験生になって慌てるよりも、チャンスがあるなら今から教えてもらった方が効率がいい。そう判断しての依頼は、結果大正解だったとしか言いようがない。
古典の活用に始まり、数学や物理の公式も、英語表現の文法も、現代国語の文章題の解き方すら、びっくりするくらいあいまいな自分がいた。
「こんなにふわっとしてて、なんとかなってきた遠坂は逆にすごい」と香織は言うが、そういう問題でもないだろう。このまま一年、なにもせずに過ごしていたかもしれないと思うと、ずいぶんと肝が冷えた。
「桐谷はさ」
「んー?」
「なんでそんなに勉強ができるわけ?」
緋高の向かいに戻ってきた香織が顔を上げる。ぱっちりと見開いた目で、緋高を見つめる。
「わかんない」
それは、意外なほど静かな声だった。
「できるんだから仕方がないよね」
ともすれば嫌味とも捉えられてしまいそうなセリフは、わずかに自嘲気味な雰囲気をはらんでいた。たった二週間の付き合いだけれど、歪んだ口元が彼女らしくないことくらい、緋高にだってわかる。
なんでそんな顔するの、と聞くと、香織は不思議そうに首を傾げた。「もっと堂々とすれば」という緋高の言葉に、あははと大きく口を開けて笑う。
「珍しいこと言うね。遠坂は、頭のいい女子とか、嫌じゃない?」
「嫌もなにも……女子だからどうとか、関係なくね」
「まあそうなんだけどさ。いいなあ、周りがみんな遠坂だったらなあ」
「それは怖いだろ」
「怖いか」
にしし、と笑って、香織は手元の本を開いた。自分の予習と復習は、最初の三十分で全て終わらせてしまったのである。
本を読んでいる時の香織は楽しそうだ。にやにやと口角を上げていたり、たまに吹き出したり、先ほどのように、勉強中の緋高に声をかけて、少し興奮気味に内容を聞かせてくれる時もある。
小説や漫画ならいざ知らず、毎回毎回、分厚い専門書を読んでそんな反応をするので、確かに彼女は頭がいいのだろう。一度だけ中身を見せてもらったことがあるが、なにがなんだかさっぱりだった。
「あっ、サッカー部だ」
窓の外がふいに騒がしくなると、香織は顔を上げてつぶやいた。休憩時間なのだろうか、ぞろぞろと連なって中庭を歩くサッカー部の集団が、緋高の席からも見えた。
香織の茶色がかった目が、ひときわ大きく見開かれる。その表面が見る見るうちに輝いて、上向きのまつ毛がぱちぱちと踊る。
その視線が向かう先を、緋高は確認しなくてもわかっていた。すっと高い身長に、長い手足。白く揃った歯と、清潔感のある短めの髪が、嫌でも脳内に再生される。
「今日もかっこいいなあ、高槻くん」
緋高はどうしても、香織の嬉しそうな横顔から目を逸らすことができなかった。それほどまでに、恋をする香織は輝いていた。
努めて無心で英単語の書き取りをしていたシャープペンシルの先が、ポキリと折れる。ため息混じりにノックする緋高の耳に、「千帆はいいなあ」とつぶやく声が、届く。
「あんなにかっこいい人と付き合ってるんだもん。さすが、超可愛い私の親友だね。お似合いお似合い」
遠坂もそう思うでしょ?
窓の外に視線をやったままおもむろに聞かれて、なにも答えられなかった。素直にうなずくのも、「桐谷の方が可愛いよ」と本音を言うのも、違うような気がする。
「桐谷」
「なに」
「……結局、コペンハーゲン解釈がどうした?」
緋高は少し考えて、強引に別の話題を振った。こちらに顔を向けた香織が、目をしばたたかせる。驚いたようなその表情に、ああやっと戻ってきたと安堵する。
「遠坂って私の話聞いてたんだね」
「まあ、スタバのBGM程度には」
全然聞いてないじゃん、と苦笑した後、香織は再び席を立って、コペンハーゲン解釈についての解説を始めた。
「さっきもちょこっと言ったけど、コペンハーゲン解釈っていうのは、量子力学における、粒子のあり方についての解釈の一つね」
「粒子ってなに」
「『目に見えないくらい超ちっちゃいもの』とでも思っておいて」
そこもね、突っ込むと結構難しいの、と香織は笑った。趣味全開と言うべきか、本領発揮と言うべきか。とにかく、とても楽しそうな笑顔だった。
「粒子は目に見えないから、観測機器を使って観測するんだけど……粒子がどこにいるかっていうのは、観測されるまで特定できなくて、それぞれの場所ごとの存在確率としてしか把握できないの」
思考にシャッターが下りかける。なんとか押し上げて、緋高は必死で頭を回した。ここでギブアップはいくらなんでもダサい。わからなくて当然なのだから、なにが一番わからないのかを考える。
「存在確率って?」
「あっちにいる確率三◯パーセント、こっちにいる確率二◯パーセント、みたいな」
例えばこの教室が真っ暗闇だとして。
見えないんだから、私は遠坂がどこにいるかわからないよね。黒板の前に立っているかもしれないし、一番後ろの席にいるかもしれない。
「桐谷が見えてないだけで、俺は窓際にいるけど」
「私たちの常識ではね。でも粒子の世界は違うの。教室が真っ暗で誰からも観測されない時、遠坂は教室のどこにでもいるかもしれないし、いないかもしれない。本当の本当に、ただ確率の状態でしか存在しない」
自分を例えに使われたせいか、緋高の背筋を奇妙な寒気が走った。真っ暗闇の教室を、どろどろに溶けて分裂した、半透明の自分が満たしている。
「さあ、ここで、教室の電気をつけました。私の目にはなにが見える?」
「……窓際に座る俺?」
「正解」
香織はまっすぐに緋高を指差した。燦々と輝く瞳が、射抜くように自分を見ている。瞬間、心もとなく辺りを漂っていた自分の存在が、たちどころに一箇所に収束する。
言うなれば、新学期の教室で自分の席を見つけた時のような安心感。三方向の座標軸を持つ空間で、自分のいるべき数字がピタリと定まるあの感じ。
「遠坂が『粒子』、電気をつけることを『観測』とする。電気をつけていない状態、つまり『観測されていない状態』では、遠坂はどこにでもいるかもしれないし、いないかもしれない。それが一箇所に定まるのは、電気をつけた時、すなわち『観測された時』」
これがコペンハーゲン解釈ね、と言いながら、香織は緋高の前に戻ってきた。「まああくまで、私の理解した範囲での話だけど」と添え、スクールバッグから水筒を取り出し、一口飲む。
「なんか……キモいな、粒子」
緋高の率直な感想に、「面白いって言ってよ」と不満そうに返す香織である。英単語どう? とノートを覗き込んでくるので、揃った毛先が白い紙に触れる。
ぐっと近づいた距離に、緋高は反射的に身を反らした。鼓動が少し早くなって、体中の熱が首元に集まる。久しぶりに感じる、この独特な浮遊感。
きっと、好きになりかけている。ふと陰った表情に心配になるくらいには。強引に話題を変えてでも、こっちを向いてほしいと思うくらいには。
目を逸らした先には、窓枠に切り取られた曇り空があった。六月を前に、天気の悪い日が増えている。今年の梅雨入りは早いのかもしれない。
なんだかなあ、と頭を抱えたい気分だった。他の男のことが好きな女子を好きになったって、仕方がない。相手が親友の彼氏だっていうんだから、香織の想いも筋金入りだ。
どうしたもんかと思考を巡らせていたら、「遠坂」と呼ばれた。形のいい平行眉が、少し困ったように下がっている。
「equallyのエル、全部一個足りないかも……」
嘘だろ、と見返したら本当だった。ため息をついて小文字のLとYの間に無理矢理縦線を一本ねじ込む緋高を、香織はくすくす笑いながら愉快そうに眺めていた。
第2話 コペルニクスは転回する
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第3話 深海みたいに
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第4話 粒子じゃない
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第5話 宇宙のかたち
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