バナナを切ってて気付いた。人は死ぬために自己研鑽している説
皆さん初めまして。
今回が初投稿になります。
普段はスポーツメンタルコーチ/フィットネストレーナーを生業としております。石井タイキと申します。
普段、Twitterやブログではメンタルやカラダのことについて発信していますが、noteでは、
- 個人的な価値観
- 日常生活の中での気付き
などを発信していければなと思います。
早速ですが、今回のテーマです。
「人は死ぬために日々自己研鑽している説」という内容になります。
哲学などで「死ぬために生きている」というような、なんとなく聞いたことがある話に近いのですが、
先日、朝ごはんを食べようとバナナをカットしているときに、ふと自分の中で改めて気付きがあったので語っていきます。
腐る手前(完熟)が一番美味しい状態
皆さんがスーパーに買い物に行ったときに、
- まだ熟しきっていないバナナ
- 熟していて食べごろなバナナ
この2つが目の前にあったとしたら、どちらを手に取りますか?
ちなみに僕は『熟していて食べごろなバナナ』です。
理由はシンプルで『熟すまで待たなくていいし美味しいから』です。
しかし、せっかく買ったバナナを置いたままにして、気付いたら腐っていた…という経験をしたことはありませんか?
ちなみに僕はあります。
そこで少し後悔するんです。
『熟しきっていないバナナを買っていれば食べられたかもしれない』と。
そこで改めて気付いたんですね。
『食べ物は腐る手前(完熟の状態)が一番美味しいんだな』と。
そしてさらに気付いてしまったんです。
『もしかしたら、これ人間も同じじゃないか?』と。
完熟に近付くことすなわち腐敗に近付くことなり
先ほど、2種類のバナナがあったらどちらを手に取りますか?
という話をしたのですが、結局はどちらも保存期間が少しズレるだけであまり大差がないんです。
ここで伝えたい気付きは、
完熟に近付く、すなわち腐敗に近付くこと
熟しきっていないバナナを買ったとしても、時間が経てば熟します。
そしてそれはやがて腐ります。
僕たちは一番美味しい(完熟している)状態でバナナを食べたいわけです。
それすなわち腐る手前です。
だからこそ、完熟に近付くということは腐敗に近付くことなんだなと。
人間も同じなのではという考察内容
今までの気付きを人間に例えてみます。
研究者やアスリートなどがわかりやすい例です。
彼らは頭や身体、精神のパフォーマンス値を限界まで高めようと日々、己を磨いています。
- 頭を限界までフル回転させ思考する
- 肉体を限界まで追い込み高めようとする
- 精神が限界まですり減るくらい向き合う
これをフルーツに例えると、
「実を完熟させ最高に美味しい状態になる準備」だと。
※この過程の充実度に差がある=腐敗までの時間にも差が出る
(例)一般人よりトップアスリートの方が明らかに身体に負荷がかかっており肉体的に短命なのでは?
フルーツも外部からの衝撃により甘みが増すことが確認されている。
それはある意味、「死(腐敗)」に自ら近付いていくということではないか。
(完熟=パフォーマンスの最大値/能力のピーク)
つまり、人は死ぬ(腐敗する)ために生きていると言っても過言ではないなと思った次第なのです。
今回の気付きから得た2つの教訓
1つ目は、
人生において、ある程度の刺激や負荷は、
“自分という存在を完熟させるために必要” だということ。
そして2つ目は、
“終わるために始まる命だとしても終わり方は自分次第” ということ。
後悔を0にすることはなかなか厳しいかもしれません。
しかし、後悔をできる限り減らすことはきっとできます。
そのために今、自分が熱意を持って取り組んでいる目の前のことに全力を注ぎたいですね。
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