迎え火の照らす先(短編小説)


「千華(ちか)ー」
「やっほ、大輝(たいき)」
 校門の端に立って、次々と帰って行く生徒たちの集団を横目で見送っていた千華は、聞こえた声に勢いよく振り返る。比較的長身の茶髪男子が、千華に向かって手を振っているのが目に入った。
「待った?」
「えっと、ちょっとだけ」
「ごめんごめん。上野のやつがさ、漫画の新刊について猛烈に語り出して放してくれねえの。まじあいつオタクかっての。なあ?」
 そんな、ほとほと勘弁といった様子で両手を挙げて肩をすくめる大輝が何だかおかしくて、千華は思わず噴き出してしまった。

***

 大輝の隣に千華は並んで、ゆっくりとした速度で歩いて行く。今日は何だか大輝が饒舌で、次から次へと色んな話題が彼の口から飛び出してくる。大輝は話が上手いので、笑いすぎた千華はお腹が痛い。
 大輝と一緒にいるのはとても楽しく心地よい。こうやって大輝と帰る時間が、千華は好きだ。
(三ヶ月、か)
 三ヶ月。そう、もう三ヶ月も経つのだ。こうして、学校の後には決まって二人で帰るようになってからいつの間にかそんなにも経過していた。
 妙な関係だな、と自分でも思う。端から見れば、毎日一緒に登下校している二人は付き合っているようにしか見えないのだろうけど、でも実は千華は大輝の告白を断ったきり、一度もOKなんてしていない。
 ふられた大輝がその後に、「じゃあ一緒に学校行かない?」と食い下がって来たのが全ての発端だった。それぐらいならいいかと千華が了承し、そして登校だけだったはずがいつの間にか下校も一緒にするようになって何となく今の状態がある。
 周りの友達からは、すっかり彼氏彼女扱いを受けているが、そういう話題になる度に千華は猛然と否定する。それが大輝の耳に入り、幾度となく彼を傷つけているのは知っているけれど、それでも千華は頑なに認めようとはしなかった。
 付き合ってしまえばいいんじゃないかと、自分でも思う。千華だって大輝のことは嫌いじゃないし、むしろ好きだ。それに、大輝が真っ直ぐに自分を想ってくれているのはわかっている。制服を着崩して、髪を染めたチャラい見た目とは裏腹に、実際の彼はとてもストイックで誠実なのだった。
 でも、嫌いでもないのに振ったのは大輝が初めてじゃない。それだけではなく、千華はこれまで誰とも付き合ったことはない。高校二年生にして彼氏いない歴十七年というのは、どうやら驚愕すべき事実らしいけど、そんなこと千華にはあまり関係なかった。
「何か、賑やかだな」
「ほんとだ、何でだろう?」
 丁度商店街にさしかかった辺りで、大輝がそんなことを言い出した。その様子がどこかそわそわして見えて、千華は首を傾げながら周りの音に耳を傾ける。確かに、いつもとは違うどこか華やかなざわめきが風に乗って耳に届く。
 そういえば、今日は年に一度のお盆祭りの日だったと、千華はふと思い出した。商店街には、赤い提灯が至る所にぶら下げてある。お祭り好きなこの街の住民のことだ。きっと準備にも余念がないのだろう。
 そんなことを考えつつ隣の大輝を伺い見ると、その視線は商店街の方へと向けられていた。だから千華には彼の考えていることがとっさに分かってしまう。大輝が口を開くのと、千華が、今から問われるであろう質問に返すセリフを用意するのとは、ほぼ同時だった。
「千華、一緒にお盆祭り……」
「ごめん、駄目。行けない」
 最後まで大輝が言い終わらないうちに、千華が遮った。彼ががくっと肩を落とすのが分かって、とても申し訳なく思ったけれど、返事を変えることはしなかった。
 ひょっとして、今日彼が饒舌だったのは、千華をお祭りに誘おうとしていたからなのだろうか。ずっとそわそわしながらタイミングを待っていてくれたのだろうか。
 その真っ直ぐさに不覚にもどきりとして、思わず「やっぱり行く」と言ってしまいそうになったけれど、とっさに千華は言葉を呑み込んだ。
 やっぱり千華は行くわけにはいかない。だって、
「ごめんね、約束が、あるんだ」

***
 
 約束がある。思えばそう言ってお盆祭りに行くのを断ったのは初めてではない。去年も、大輝に誘われたのと同じようなシチュエーションで友達の誘いを断った。一昨年もそうだったような気がする。
 四年前から、千華はお盆祭りには行っていない。それどころか、お盆の期間の四日間の間は、夜には家から出ることすらしていない。どんなことがあってもそれだけは千華は守り続けてきた。
 千華の中の絶対のルール。これだけは、絶対に破ってはならないのだった。
「まだ、来てくれないの? 私、待ってるんだよ。せい――」
 帰ってきた自分の部屋で、千華はベッドに腰をおろしてそっと目を閉じる。つぶやきは虚空に吸い込まれてすうと消えていった。

〝約束だよ〟

 無邪気にそう言った千華自身の声が反芻される。
 それに対して、記憶の中の少年が穏やかに笑うのだった。

***

「ねえ千華、空に火が浮かんでいるよ。とても綺麗だ」
 話は四年前に遡る。お互いの家族が出かけてしまっているのをいいことに、ついつい長居してしまった日のことだ。いつものように彼の部屋、今時珍しい風情のある日本家屋の二階で、適当に本棚の本やら漫画やらを引っ張り出していたら唐突に彼がそう言ったことがある。千華はきょとんとして、窓の外を覗き込んでいる彼の方を振り返った。
「火? どういうこと? せい」
 尋ねる千華に、せいは静かに笑って、こっちにおいでと千華に向かって手招きする。千華は大人しくそれに従って、彼の隣へと歩いて行った。
 けれど、同じように窓から空を見上げてみても、千華の目には何の変哲もない夜空しか映らない。
「何も見えない」
「そりゃあ、千華にはそうだよ。でも僕には見えてる。とても綺麗な、幾千もの火が」
 そう言って、せいは何かを愛おしむようにすっと目を細める。千華は、その端正な横顔をしばらく眺めていた後で、ぶーっと頬を膨らませた。
「見えないよお。つまんない。いいなあ、せいは。私には見えない色んなものが見えて」
 そうむくれてみせると、隣で苦笑するのが聞こえた。
「あはは。でもそんなにいいものじゃないよ。死者の炎なんて、見えないなら見えないでいいさ」
 霊感体質とでも言うのだろうか。せいには、千華たちには見えない様々なものが見えていた。幼い頃から、人より多くのものを見てきたせいか、彼は同い年の子たちに比べてずっと大人びていて、いつも不思議な雰囲気を纏わり付かせていた。
 彼の家が、子ども達の間で幽霊屋敷と呼ばれる存在であったことも、その雰囲気を助長した。それが原因で、中学のクラスでは随分と浮いた存在だったけれど、千華はそんな彼にいつの間にか惹かれていた。気付けば勝手に家に上がりこむような仲になっていて、いつもは比較的一人を好んでいた彼も、どうしてかそれを拒もうとはしなかった。
「どうして、今日は空に火が見えるの?」
 千華は無邪気に尋ねる。彼には見えているらしいその火を、怖いとは思わなかった。いつも彼と一緒にいたせいか、幽霊といった類のものに関しての恐怖が一切なく、それは千華にとって、「見えはしないがただ当たり前にそこにあるもの」だった。その頃の千華にとって、〝こちら〟と〝あちら〟の境界線はひどく曖昧だったのだ。
「今日は八月十三日。お盆の一日目だよね」
 千華はうなずく。
「お盆には、先祖の霊が家に帰ってくるんだよ。だからこの火は、もうこの世にはいない誰かの魂。千華、迎え火って知ってる?」
 初めて聞く言葉だったので、千華は首を振った。
「場所によってはね、十三日には野外で火を焚くんだ。霊が迷うことなく家に帰れるようにってね。それを迎え火って呼んでる。……今はもう、やらない所が多いけどね」
 千華たちの街でも、迎え火なんて見たことはない。今はもう、廃れてしまったのだろう。
 迎え火がなかったら、霊たちはちゃんと帰ってくることができるんだろうか。迷子になってしまわないんだろうか。そんな思いがいつの間にか顔に出ていたのか、せいがくすりと笑った。
「きっと大丈夫だよ。みんなちゃんと戻ってくる。大切な場所は、きっといつまでも覚えているから」
「そう……?」
「そうだよ」
 大丈夫だと言われて千華はほっと笑顔を見せる。それを見たせいも、穏やかに微笑んだ。
「それにしても、不思議だよね。死んでもなお、こんなに綺麗な炎を灯すなんて。本当に、不思議だ――」
 そうつぶやく彼の姿は、どこかひどく存在が希薄に思われて、千華は幼心に不安に駆られた。無意識のうちに手を伸ばし、窓枠にかかった彼の手首をぎゅっと掴んでいて、一瞬彼が驚いた表情を見せる。
「千華?」
「いやだ、行かないで」
 予想だにしないセリフだったのか、せいが目を丸くした。でもそれは本当に一瞬のことで、すぐにいつもの穏やかな笑顔に戻る。
「何言ってるの? 僕はどこにも行かないよ。ここにいるよ」
「ずっと? ずっといてくれる?」
「当たり前だろう? ずっといるよ。千華の隣に」
 千華の隣に。千華はそう言ってくれたのがとても嬉しくて、ぱっと笑顔を輝かせる。そんな千華の髪を、せいがそっと撫でてくれた。
 しばらくすると、せいは千華から離れ、本棚の方へと歩いて行く。江戸川乱歩の本を手に取りながら、微かに歌を口ずさみ始めた。
 以前に彼が、好きな映画のエンディングなんだと教えてくれた歌だ。彼はこの歌をよく口ずさんでいたが、なぜかいつも最後まで歌わない。いつも中途半端な所で、それも毎回決まった所で、歌はいつも唐突に途切れるのだった。

 ずっと一緒にいるよと、そう言ってくれた彼だったけれど、結果的に彼の言葉は嘘となってしまった。
 それから半年たったある日突然に、まるで誰かに呼ばれたかのように、せいは静かに向こうへと逝ってしまったのだった。
 原因の病名は、彼の両親から聞いたのだけど、長い名前だったから忘れてしまった。千華にはずっと言わずにいたそうだが、もう治る見込みなんてなかったらしい。
 あまりに短い生も、彼なら何となく納得できてしまった。人には見えない色んなものが見えた彼は、きっと〝こちら〟より〝あちら〟の方へ近い存在だったのだろうと、千華は今でも本気で思っている。

 柏木清(せい)。享年十三歳。今から四年前の話になる。

***
 
 両親は、せい自身にも病気のことを伝えてはいなかったらしい。でもきっと、せいは自分の命運なんてとうにわかっていたに違いない。何か知らせのようなものが、あったのかもしれなかった。
 せいが向こうへ行ってしまう数日前、千華はこう言われたのだ。
「千華。約束、守れないかもしれない」
「え……?」
 突然の言葉に、千華は呆然としてせいを見た。彼の様子はいつも通りで、他愛のない話でもするかのように、口ぶりは軽かった。
「僕、多分もうすぐ死んでしまう。だから、約束守れないんだ。ごめんね」
 今思えばとんでもないセリフだった。けれど、その時の千華の頭に真っ先に浮かんできたのは、死という言葉に対する悲しみや驚きではなく、どうすればずっとせいに会うことができるだろうということだった。
 そして千華は答えを見つける。
「じゃあ、お盆になったら会いに来てよ。それなら寂しくない」
 何も考えていない、無邪気な言葉だった。せいはしばらく黙り込んでいた後、ぽつりと言った。
「死者は生者をあちら側へと引き寄せる。会えば僕は、千華を向こうへ連れて行ってしまうかもしれないよ」
「いいよ。せいが一緒なら、それでもいいよ」
 無邪気であるがゆえに、千華の言葉は紛れもなく本気だった。その時せいがどんな顔をしたのかはわからない。千華は、念を押すように声を強める。

「約束だよ。私、待ってる」

***

 だから千華は、四年が経った今でも、お盆にはこうして必ず家に帰ってきて、一人になった部屋でそっと窓を開けて、そして――炎を灯した提灯を窓の外につり下げる。
 提灯はデパートで一番安いのを買ってきた。火をつけられるものなら何でも良かったのだ。
 そう。これは千華の、せいのための「迎え火」だった。せいが教えてくれた迎え火を、千華は彼が逝ってしまった直後から自分でやり始めた。
 せいの家はここではないけれど、千華は毎年のように炎を灯す。彼が、迷わずに千華に会いに来れるように。
 そうして、千華は毎年待ち続けている。約束が果たされるその時を、ずっと、待っているのだ。
 けれど、未だにせいは一度も、千華の前に現れてはくれないのだった。
「せい、約束、だよ……」
 つぶやいた声は、部屋に流れる音楽に紛れていった。千華の部屋には、外に音が漏れないように控えめなミュージックがかけられていた。せいがいつも口ずさんでいた、古い映画のエンディング。何度も聞いて、すっかり覚えてしまった。――それだけの月日が経っても、彼は千華に会いに来てはくれていない。
 どうして彼は会いに来てくれないんだろう。こんなにも千華はせいのことを待っているのに。こんなにも、会いたくて仕方ないのに。

***

 チリン――……。

 どれだけ時間がたったろう。風鈴の音に誘われて、千華は空を見上げる。闇空には、小さな星たちが天に空いた穴のように散らばっていた。
 祭り囃子が風に乗って届く。けれど千華の周りはひどく静かで、空はとても綺麗だった。せいが火が綺麗だと言い出した、あの日と何も変わらない静けさと美しさ。けれど、今千華の隣には誰もいない。それだけが決定的に違うのだった。
 今も空には、無数の火が浮かんでいるのだろうか。その中の一つが、せいの火なんだろうか。それならどうして会いに来てくれないんだろう。四年も待った。ずっとずっと、千華は約束を守って待ち続けている。
 なのに――彼は――、

 すう――……。

 途端、心臓が跳ね上がった。何かが、視界を横切った気がした。
「せ、せい……?」
 千華は恐る恐る呼びかける。漏らした声は震えていた。
 風が吹いたように思った。窓の外で提灯の中の迎え火がゆらゆらと揺れる。その時、確かに千華の視界の端に、庭で揺らめく小さな炎が映ったのだった。何度瞬きしても、それは確かにそこにある。小さくて、迎え火のそれよりずっと真っ赤な火。
「せい、なの……?」
 動けないままに見ていると、炎はふわりと宙に浮かび、やがて門からすっと出て行く。
 待ってと叫んで、千華は無我夢中で立ち上がっていた。後ろで丸椅子が盛大に床に転がったけれど、そんなこと気にも留めなかった。
「待って! せい、待って……!」
 反射的に窓の外の迎え火を引っつかむ。今にも止まるんじゃないかというほどの早鐘を打つ胸で、千華は部屋を飛び出していた。

***

「はあっ、はあっ……」
 走りすぎて喉がひりつく。千華は立ち止まって軽く咳き込んだ。
 火は、千華が門を出たらもうどこにも見当たらなかった。思いつくままに走り回って探したけれど、結局どこにもいない。
 そして気付けば千華が立っていたのは、古びた雰囲気の日本家屋の前だった。住人はもうおらず、電気もついていなければ表札だって取り外されたままのその家は、昔からその気はあったのだが、今はもはや正真正銘の幽霊屋敷と化している。
 けれど、ここが誰の家であったのか千華にわからないはずがない。だって、ここは、
「せいの、家……」
 せいがいなくなって、その後両親も引っ越してしまい、たった一つ取り残された彼の家。少し躊躇してから、千華は足の向きを変えた。
 そして、四年ぶりに千華は彼の家の門をくぐる。


 ギィッと木の床がきしむ。そこら中が埃っぽい。住む者のいない家は、すっかり荒れ果てていた。
 家の鍵は空いていた。空屋の鍵はいつも空いているものなんだろうかと疑問に思いつつも中に入って、家の中を奥へと進む。月明かりに青白く照らされた庭をを眺めながら縁側を通り抜けると、やがて千華は急な階段にさしかかった。そっと足をかけると、千華の提灯の中で迎え火がゆらゆらと揺れる。随分と懐かしい感覚だった。
 そして、やがて一つの部屋の前へと辿り着いた。震える手でノブの手をかけ、開け放つ。

 ザッ――――。

 風が千華の横を駆け抜けていった。
 部屋でたった一つの窓はなぜだか既に空いていて、そこから丸い月が見えた。
 窓が空いているせいか、この部屋だけは少しも埃っぽくない。窓からの月明かりと千華の手にした迎え火とで照らされた室内は、一つも家具がなくてひどく殺風景だったけれど、空気だけはあの当時のままだった。静かで心地よい、彼の部屋の雰囲気。古びているけれど、なぜだか落ち着く木のにおい。
 千華はそのままふらふらと窓際まで歩いて行く。迎え火の炎が、木造の壁に陰影を描いた。
 あまりに懐かしく、目を閉じるとまるで今にもせいの声が聞こえてきそうだった。彼の穏やかな声と笑顔が、すぐそこに。
「せい。せい」
 もういない少年の名前を呼ぶ。彼は、いつもどこかに腰掛けて静かに本を読んでいたけれど、そう言えばいつでも本を閉じて振り返ってくれた。
 千華も真似して、大抵はその隣で漫画を開いていた。そんな時の部屋は、とても静かで穏やかな空気が流れていた。
 千華は、そんなせいの部屋が好きだった。彼の持つ雰囲気が好きだった。千華の横で静かに話す彼の声が好きだった。――せいのことが、好きだった。
 初恋、だったと思う。それはあまりに幼すぎる感情だった。けれど、確かにそうだったのだと思う。
 でも、千華は彼の部屋で彼と一緒にいるだけで幸せだった。だから千華は、言いかけた一つの言葉を何度も何度も呑み込んだ。それを言えば、何かが壊れてしまいそうな気がしたのだ。
 結局伝えられずじまいになってしまった言葉だった。けれど、それは彼も同じであったのだと、千華は後々知ることとなる。せいがいつも口ずさんでいた歌。どうしてか決まった所で途切れる、彼の歌。その頃は知らなかった途切れた後の歌の続きを、千華はもう知っている。

 ――っ――……。

「え……?」
 思わずそんな声を漏らして、千華は一瞬硬直した。ゆっくりと、頭を部屋の入り口の方へと向ける。開けっ放しのドア。その向こうの暗い廊下。そして、その先から聞こえる、確かな、懐かしい、声。
 それは、決して聞き間違いなどではなかった。まさに今千華に聞こえてくるそれは――確かに、せいの歌声だった。

 ――い――から――……。

「せ、い」
 名を呼んだ千華の声は、掠れてほとんど言葉になっていなかった。
 廊下からの歌声は止まない。何度も聞いた、懐かしいメロディ。いつも途中で終わる彼の歌。
 そして、段々近づいてくるそれと同時に、千華の耳に届く誰かの足音。

 ――そし――ぼく――……。

 嘘だと思った。信じられなかった。千華は固まったまま、震える手先をそっと持ち上げた。ずっと聞きたかった彼の声。それが、今はすぐそこで聞こえてくる。
 来てくれたんだと、泣きそうだった。やっと約束を、守ってくれたんだと。

 ――行こ――さ――……。

 歌はいつの間にかサビにさしかかっている。千華は嬉しさと懐かしさの中で、目を閉じて彼の歌声に身を任せた。
 ようやく会えるのだ。懐かしい彼に。大好きな、彼に。
 千華は嬉しくて仕方なくて、もし本当に連れて行かれてしまっても、もう構わないと思った。
 よかった。もう、千華は一人じゃない。これからは、きっとずっと二人一緒。だからもう、一人で空を見上げる必要なんてない。もう千華は、待たなくたっていい。

 ――だから――ぼく――……。

 最後の直前のワンフレーズ。彼の歌は毎回ここで終わっていた。そこで歌うのをい止めた彼はいつも、その後しばらくじっと黙り込んでいたのだった。
 けれど、今は、
(終わら、ない……?)
 千華ははっとする。いつも決まった場所で歌うのを止める彼――でも今日は、歌がそこで途切れることはなかった。いつもの場所が過ぎても、どうしてか彼の歌は聞こえ続けている。
 そして、もう今にもドアの向こうから現れそうなほどにすぐそこで聞こえる彼の声は、息を潜める千華に向かって、静かに静かに最後のフレーズを紡いだのだった。

 ――君が好きだったよ――。
 
 歌の最後のメロディに乗って、その言葉は確かに千華の耳元で響いた。そして同時に千華の横を駆け抜けた、どこか懐かしい感覚。それは昔この部屋で、千華がいつも感じていたもの。――確かに、千華の愛していたもの。
 そして、

 ボウッ

「えっ……!?」
 右手に感じた熱さと、視界の隅に映った赤色に、千華は小さく声を上げた。反射的に手元を見ると、提灯の中の炎が、激しいまでに燃え上がっていた。
 思わず千華は提灯を手放す。提灯はゆっくりと落下して、床に着いたかに思えば次の瞬間、一際大きな紅の火が部屋を照らした。そして千華が驚きのあまり言葉を失っている目の前で、炎は幾つもの筋となって宙に舞い上がり、そのまま曲線を描いてドアの向こうへと吸い込まれていく。
 そして――、

「お前、こんなとこで何してんの?」

 瞬間、部屋を切り裂く明るすぎる光。反射的に目を閉じた千華がおそるおそる目を開いた時に視界に入ってきたのは、今し方炎が吸い込まれていったばかりの入り口に立つ、懐中電灯を持った少年の姿だった。
「た、大輝……?」
 状況がつかめないまま、千華は呆然とつぶやく。
 そこには鷲尾大輝が、たった一人で立っていた。

 千華の足下では、空っぽになった提灯が、一筋の白煙を上げて転がっていた。
 さっきまで聞こえていたはずのせいの歌声は、もう少しも聞こえなくて、彼の姿だって、もちろんどこにも見えなかった。
 

***

 部屋の中はひどく静かだった。それは、胸を刺すようなほどに静かで痛くて、だから千華にはわかってしまった。さっきまで千華に歌を聴かせてくれていた存在は、もう、どこにもいないということに。ここには千華の大輝の二人しか、いないのだということに。
「大輝、どうして、ここに……?」
「お前のこと探してたんだよ。お前、いきなり家飛び出したんだろ? 様子がおかしいからって、たまたまお前の携帯の一番上にメールがあった俺にお袋さんから電話かかってきて、探してたら、ここに入ってくの見たって教えてくれた人がいて……」
 自分で尋ねておいたくせに、大輝の返事は全く千華の頭には入ってこなかった。
 呆然とした思いで、大輝が立っている向こうの廊下を見つめる。せいはどこ? あの歌の主はどこに行ってしまったの? どこに……っ。
「大輝……さっき、歌……歌ってた?」
 掠れる声で尋ねる。一方の大輝は首をひねった。
「歌あ? 歌ってねえぜ、そんなもん。何でだ?」
 その返答を聞いた時、千華は何となく悟った気がした。


 突っ立ったままの千華だったが、大輝に促されて廊下へ出てくる。大輝の後ろについて、空っぽの提灯をぶら下げて階段を下りる間、千華はずっと無言だった。
 けれど、階段を下りきって、庭に面した縁側にさしかかった時、千華はそれを見つけたのだった。
「足跡……?」
 大輝を押しのけて千華はそこに駆け寄る。埃の積もった廊下に残っていた足跡は、大きめのものが二人分。そして、それよりずっと小さな足跡がそれとは別に一つ。
 一番大きいのは大輝のもので、少し小柄なのが千華のもの。じゃあ、残る小さな足跡は――。
「げっ、何だよこれ! おい千華、早く出ようぜこの家……」
 足跡に気付いて青くなっている大輝の横で、千華が目を奪われたのは別のものだった。
(何これ、水滴……?)
 小さな足跡に重なるように、雫の散った跡があった。
「泣いてた、の……? せい……?」
 それの意味する所に気付いた瞬間、千華はするするとその場に座り込んでしまう。大輝がますます慌てて、「千華!」と名前を呼んできた。

 ――君が好き――。

 ずっと、言えなかった言葉がある。言おうとして、何度も口をつぐんだ言葉。それを言ってしまえば、もう彼の隣にはいられない気がしたから。今度こそ、拒否されてしまうような気がしたから。
 でも、それは多分彼も同じだった。彼にも、どうしても最後まで歌えない歌があった。 二人きりの部屋で、せいはいつも歌を口ずさんでいた。それは多分、千華へのラブソング。恥ずかしがり屋な彼の、彼なりの表現った。
 けれど彼は、どうしても最後のフレーズが歌えずにいた。彼も、今あるものが壊れてしまうことを、人知れず恐れていたのかもしれない。
 でも彼は今夜、最後までちゃんと歌ってしまった。そして、彼が言ったのは、「君が好きだったよ」という一言。千華が知っているあの歌の本当の歌詞の最後は、「君が好きだよ」。
 たった二文字の違い。けれど、それは大きすぎる違い。
 でも当たり前の話だった。二人の物語は、とうに終わりを告げている。幕引きがあまりに遅すぎただけだ。まるで、エンドロールがやたらと長くてなかなか終わらない映画のように。
 でも、とうとうエンディング曲は最後まで歌われてしまった。他でもない彼自身が、それを望んで。
(でも、せいは泣いてたんだ……) 
 全てを終わらせることを、彼は泣いてくれていた。幕引きまでに四年もかかったのはそのせいだったのかと思う。二人の物語を本当に終わらせてしまうことを、彼は一人で怯えていたのかもしれない。大人びた彼だったけれど、その内に抱えていたのは実はひどく脆いガラスのようなものだったのかもしれなかった。
 けれど、それでも彼は結局終演を望んだ。千華に最後の歌を聴かせて、そして――迎え火を散らせて。
「せい、迎え火、受け取ってくれなかったんだね……」
 迎え火を灯しても、せいは千華の元へ現れてはくれなかった。彼は千華の迎え火に応えてはくれなかった。そしてその代わり、迎え火が吸い込まれていった先から現れたのは、せいではなく、大輝だった。
 迎え火が迎えたのは、もうここにはいない少年ではなく、生きて千華の隣にいる彼だった。
「もう、待たなくていい……そういう、ことなの……?」
 死者を迎える火なんか灯してはいけないと。いつまでもそれに捕らわれていてはいけないと。
 灯すのは、死者ではなく生者を――未来を迎える火でなくてはならないと。
 千華はぐっと唇を噛みしめる。それなら、千華も終わらせなくてはならなかった。
「せい……大好きだったよ……。ありがとう、さようなら……」
 言えなかった言葉を、今。その途端、感情と涙とが一気にあふれ出してくる。こらえられずに嗚咽が漏れる千華に対して、慌てふためいていた大輝は、何か勘づいたのか千華の隣にしゃがみこんでぎゅっと抱きしめてくる。その暖かさに、ますます千華は泣いた。
 せいは千華のすぐ側までやってきて、歌は聴かせてくれても、ついぞ姿を現すことはなかった。
 だからきっと、それが答えなのだと思った。
 死者なんて忘れて、前へ生きろと。

***

 外へ出ると、大輝がほっと息をついた。まだ青い顔で、「何で今日だけ鍵空いてんだよこの家……」とか何とかぶつぶつ言っている。幽霊とかは苦手なのかもしれなかった。そんな大輝を横目に、千華は口を開いた。
「ねえ、大輝」
 呼びかけると、大輝がこちらを向くのがわかった。
「大輝……私、好きな人がいたんだ」
「……ああ」
 千華の突然の言葉に、けれど大輝は怒らずにうなずいてくれた。
「大好きだった。でも、もうその人はいない。その人は、死んでしまったから」
「……」
「私は、大輝のこと好きだよ。でも、その人のことも忘れられない。その人と大輝どっちが好きかって聞かれても、私には答えられない。その人の存在はいつまでも私の中に残って、大輝の存在はそれを超えられないかもしれない。――でも、それでも私は大輝を大切にしようと思う。精一杯、好きでいたいと思う。私はもう、いつまでも止まってるわけにはいかないから、大輝のことを好きな気持ちに、嘘なんかないから……だからっ」
 息を吸い込む。次のセリフを言うには、随分と勇気が必要だった。そして、まだ残る、胸の痛みも。
「大輝は、私の迎え火を、受け取ってくれる……?」
 過去のための火ではなく、未来を照らす灯火を。きっと、そうでなくてはならない。
 千華は、恐らくこの先ずっと、せいのことを忘れることはできないだろう。彼のことを好きじゃなくなる日も、来ないだろう。
 でも、それでも前へ進もうと思った。過去を捨てられなくても、今誰かと生きていくことはできるのだから。
「当たり前だろ」
 大輝の、短くて強い返事。
「俺でいいなら、お前の未来になってやる」
 迷うことなく彼は言った。その顔を直視できず、千華はうつむく。ありがとう、と泣きそうな声でつぶやいた。やっぱり、いつだって大輝は真っ直ぐだった。本当に、反則なぐらい。
「お盆祭り、行こうか」
 うつむいたまま千華は言う。少し間があった。
「いいのか、約束は」
 大輝の問いに、千華は、うん、とうなずいた。
「いいんだ。約束、もう守らないよ。私……もう、待たないよ」
 涙をぐっとこらえて、千華は大輝を真っ直ぐに見上げる。するとその直後、千華の手元でぽっと軽い音がした。二人で同時に覗き込むと、驚いたことに、千華の持つ提灯に小さな火が灯っていた。――今の今まで、何もついていなかったはずだというのに。
 二人で思わず目を見合わせる。大輝は一瞬ぎょっとした顔をしていたが、諦めたようにすぐに笑顔になった。
 そんな彼の隣に千華は並ぶ。大輝が懐中電灯の光を消して、やがて二人はゆっくりと歩き出す。灯火がゆらゆらと揺れた。
 二人の足下を、やわらかな提灯の火と月明かりが、静かにそっと照らしていた。
 

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