(中編小説)アリスの丘に三日月は笑んで 前編

 

1.午睡の始まり

 私はいわゆる、〝変な子〟だったらしい。
 小学校に入りたての頃の話だ。学校という新しい世界で、私が一番感動したのは、本が所狭しと積まれた大きな図書室の存在だった。幼い頃から本の虫だった私は、いつでも好きな本を手に取れる環境に夢中になった。
 そして、毎日一人で図書室に入り浸っていた折に、ある日突然担任から呼び出されたのだ。

 ――三枝(さえぐさ)さん、どうして友達と遊ばないの? いじめられたりしていない?

 呼び出される理由もさっぱりわからなかった私を待っていたのは、いかにも人の良さそうな女教師が、心配そうに眉根を寄せた姿だった。
 そんな彼女の少しだけ押しつけがましい同情は、私にかなりのインパクトを残した。私自身は何の違和感もなく、ただ自分の思う通りに好きなことをしていただけだったのに、彼女にとっては仲間の輪に入れない取り残された少女であったのだ。
 それ以来、学校の図書室は私にとってどこか近寄りがたい場所となってしまった。

***

 図書館っていうのは、SF映画のワープゲートみたいなものだと思う。行く先は自由で選びたい放題。目的地指定は無制限。時間内に帰ってこい、なんて決まりもなし。
 ただし絶対のルールが一つ。必ず一方通行ってこと。
「うーん、ホームズは全部読んだしなあ……」
 さっきから私は、市営図書館の大きな本棚の前で、手当たり次第に本を出しては戻してを繰り返していた。あちらこちらに目移りして、結論は全然出ない。
 私は本が好きだ。高校二年生になった今でもそれは変わらない。
 最近のマイブームは海外ミステリ。シャーロック・ホームズにエルキュール・ポアロにオーギュスト・デュパン。世界にはこんなにかっこいい探偵たちが数え切れないほどいて、その数だけ事件や謎の溢れる危険で素敵な世界が広がっている。
 本を開けばひとっ飛びでその世界の中に入り込める。本っていうのはさながら一つの異世界で、図書館は行き先自由のワープゲートだ。
「よしっ、『オリエント急行』にしよう」
 そして私はアガサ・クリスティの名作を手に取る。本は大人しく私の手におさまって、当たり前だけど何も言ってはくれない。彼らは、こちらから表紙を開くまでは絶対に顔をのぞかせてくれないのだ。だから、ワープゲートは絶対に一方通行。
 でも、だから図書館の静けさは保たれているのかもしれない。「アガサ・クリスティ」の隣の棚は「アーサー・コナン・ドイル」。世界最高の探偵を自称する灰色の脳細胞の男と、薬物中毒の変人の天才顧問探偵。彼らが自由に本の中と外を行き来できたとして、きっと気は合わないんだろうな。
「あー、そろそろ帰って課題やらなきゃ」
 本を抱えたまま軽いため息。館内の読書家たちの素敵な沈黙を破らないように、もちろんコソっと。
 私は棚を離れて、無数の本たちに囲まれた通路を歩き出す。横目でいろんな棚を見送っていく。日本文学、歴史小説、海外文学――まだまだ、私の知らないゲートは無限に開いたままだ。
「あれ――?」
 ふと立ち止まる。
 まだまだ続く通路の数歩先、青い絨毯の上に、無造作に一冊の本が落ちている。私は誘われるように、何気なくその本を手に取った。

 『不思議の国のアリス』

 簡素な薄手の本に刻まれた題名を読み上げて、私はなぜか足下がぐらつくような感覚を覚えた。その意味もよくわからないまま、次の瞬間にはハッと我に返る。そして、もう一度だけシンプルな字体で書かれた名前をなぞる。
 もちろん私だってこの本は読んだことがある。ルイス・キャロルの有名すぎる小説は、テニエルの美しい挿絵とともに、私の幼い記憶の中に。
 でも、記憶にあるというだけでは説明できない、おかしな違和感。まるで、大切な何かを忘れているような――。

「あれ、藍ちゃん?」

 後ろからいきなり名前を呼ばれ、私はまるでイタズラを見つかった子どものように、びくりと肩を震わせた。わけもなく後ろめたい気持ちになりながら、おそるおそる振り返る。
 そこには、思いもかけない人間の姿があった。
「し、白木せんぱい!?」
「久しぶりだねー藍ちゃん、いつぶりかな」
 白いワイシャツを爽やかに着こなす好青年は、私に向かって気安げに片手を上げた。その親しみやすさに、一時跳ね上がった私の心臓はするすると落ち着きをとりもどしていく。
 今は九月だから半年ぶりですと、そう答えようとした。だが、その前に私の目線は彼の頭上に向く。
「先輩、髪」
「そ、大学生らしく染めてみた。どう?」
「似合いすぎて、なんかチャラいです」
 「それは複雑な心境だなあ」とおどけてみせる仕草は、見慣れない茶髪と相まって優男のそれ。でも彼がやると、違和感も嫌みもないから不思議だ。
 白木誠也。高校で私の所属する弓道部の先輩。自分の世界に生きてる、不思議な空気を持つ人。いや、この三月で彼は高校を卒業してしまったから、先輩だったという方が正しい。
「こんなところで会うなんて思わなかったよ」
「わ、たしもです」
 本当に、こんな中心部から外れた図書館で知り合いに会うなんて思わなかった。わざわざ誰にも会わなさそうな所を選んでいるのに、どうしてこうなってしまうんだろう。
 居心地の悪さに、私の言葉は変なところで途切れる。
 それきり黙ってしまった私の前で、先輩は線の細い首元を綺麗に傾げた。そして、私の抱えた本に視線を向ける。
「あれ、藍ちゃんってそんな本も読むんだ」
「……!」
 私は瞬間的に、さっと血の気が引くのを感じる。アリスの本を拾い上げたままだったことを、今の今まですっかり忘れていたのだ。
「ち、違うんです。借りようと思っていたのはアガサ・クリスティだけで、こっちは別に……」
 言い訳も、慌てて本棚に戻す動作もぎこちない。
 そんな私に先輩はますます不思議そうな顔をして、ふいにくすりと吹き出す。
「そんなに慌てなくていいのに。俺は好きだよ、不思議の国のアリス」
 それから先輩は、何か新しいイタズラを思いついた子どものように、ニッと口元を上げて笑顔を作った。まるで本の中の、三日月の形に笑うチェシャ猫のようだと、思わず私は思ってしまう。
 そして先輩は、私が戻したアリスの本に再び手を伸ばす。綺麗な白い指が、表紙ばかり厚い簡素な本を取り上げる。
「きみが借りないなら、俺が借りるよ。で、こっちが本題なんだけど」
 藍ちゃんはこれから暇なのかな? そんなナンパさながらのセリフが、茶髪の優男から飛び出す。
 図書館でナンパなんてナンセンスだ。そう思いながらも、私は自然な動作でうなずいている。先輩の中で見え隠れするチェシャ猫が、私を見下ろしてニヤリと笑う。
「じゃあ――今からどっかで、お茶でもしようか」

 ――ひょっとして、彼と再会したこの瞬間から、私は夢を見ていたのではないか。ふとそう思う瞬間がある。けれど、決してそうではないことを、私はもう知っている。
 それじゃあ始めよう。
 黄金色の昼下がり。
 彼が私にとって何者なのか――イタズラに惑わすチェシャ猫なのか、ふざけるだけの帽子屋なのか、それすら知らなかったこの日から。

***

2.フライング・ティーパーティー

 弓道部の中でも、先輩はちょっと浮いた人だった。少なくとも私はそう思っていた。
 うちの弓道部は弱小だし、皆で一丸となって頑張ろう、なんていう熱い風潮もない。決して適当なわけでもないが、どこか緩い雰囲気は否めなかった。
 先輩は、そんな中途半端に緩んだ空気そのもののような人だった。頑張るところは普通に頑張る。けれど、それ以上でもそれ以下でもないのだった。
 ひとしきり射込んだあとの休憩時間、先輩はいつも弓道場の隅で、道着のまま文庫本片手に足を組んでいた。自主練習の弓音が響く弓道場で、不似合いなはずのその姿は、なぜか自然とその場に溶け込んでいた。
 そのせいか、注意する人は誰もいなかったように思う。

 ぱらり、とページをめくる音がする。
 図書館近くの、控えめなBGMの流れる小さなカフェ。その窓際のテーブルに私たちは座っている。
 先輩は当時と寸分変わらない様子で、アリスを片手に足を組んでいた。
 高校三年生は夏で引退するので、当時一年生だった私と先輩が弓道場の同じ空間にいたのはたった数ヶ月に過ぎない。けれど、テーブルを挟んで明るい陽光の中にある先輩の姿は、私の中にひどく懐かしさを誘う。
 対する私は、肩で切りそろえたミディアムヘアを耳にかけて、まだ温かいコーヒーに口をつける。
「うん、やっぱりいいね、ルイス・キャロルは」
 本をパタリと閉じて、先輩が私の方を見る。にいっと細められた目は、やっぱりチェシャ猫のよう。
「読んだことあるんですか?」
 男性なのに、という言葉を私は飲み込んだ。そんな私の心の声を知ってか、先輩はカラっとした笑い声をたてる。
「あるよ。二つ上に姉がいてね、小さい頃は部屋も本棚も共用だったから、姉の本も勝手に読んでた。色々読んだなあ、赤毛のアンに秘密の花園……はは、今思えば全部女の子の読み物だよね」
 少しの恥ずかしげもなく言ってのける先輩の言葉に、私はすんなり納得していた。
 お姉さんの影響だろうか、この人はどこか男性らしくないところがあって、そして少し女子に対して距離が近い。初対面でいきなり「ちゃん」付けされてドン引きしたことは、本人には内緒である。
「私も、そのあたりの児童文学は大体読みました」
 そんな彼の前で、私と他人との距離感まで徐々に曖昧になっていく。だから口元からこぼれ落ちるように、つい私は言ってしまったのだ。
 その後で先輩が目を丸くするのを見て、しまったと後悔したけれどもう遅い。
「藍ちゃんも? へえー読書家のイメージなかったなあ」
「えっと、そうですかね……」
「うん。だって図書室で会ったの、一回だけじゃん」
 一回だけ。その言葉に、私は思わず目を見開く。
 先輩は図書委員だった。高三だから仕事なんてしなくていいくせに、この人は「受験勉強の休憩時間がわり」とのんきなことを言って、いつまでも当番に参加していた。
 でも私が図書室に行ったのは、偶然友達について行った一回だけ。確かにあの時、カウンターで本を読んでいた先輩と目があって、彼は人懐っこくニコリと笑った。
「そんなこと、よく覚えてますね」
「珍しかったからね。ずっと図書委員やってたけど、きみは一度も来なかったし」
「そうですね……私は、学校の図書室には全然行かなかったです」
 「学校の図書室には」と強調した意味を、先輩はすぐに察したらしかった。
「いつもあの市営図書館に? なんで?」
「あそこなら知り合いが、全然いないので」
 答えになっていない答えだ。案の定先輩はキョトンとして私を見ている。主人公のアリスのように、好奇心いっぱいのきらきらした目で。
 だから私はつられるように、するりと次の言葉を口にしてしまうのだ。
「私……小学校で、図書室が一番好きだったんです」
 ああ、やっぱり今日の私はおかしい。
 私はこんなに簡単に自分のことを人に話さない。私はもっと用心深いはずなのに。私は、「私をお飲み」と書かれた怪しい瓶の中身を、不用心にもゴクゴク飲んでしまうような人間じゃないはずなのに。
「毎日友達と遊びもせずに、図書室に通っていました。だってそこには、色んなものがあったから。空を飛ぶ竜に、しゃべるネズミたち。そして、おかしな生き物たちのいる不思議の国」
 なんでこんな昔話をしているのだろう。そう思いつつも、不思議と口は止まらない。
 現実には起こらない空想の話が、幼い私は大好きだった。中でもお気に入りだったのは、まさに先輩が持っている『不思議の国のアリス』。
「けどある日、担任に呼び出されて聞かれたんです。どうしていつも一人なのかって。別にいじめられてなんかない、本が読みたくて図書室にいるだけだって答えたら、先生はこう言いました。〝そんな空想の世界だけじゃなくて、現実の普通のお友達を作りなさい〟って」
 先輩の目がすっと細くなる。今度は、見透かすようなチェシャ猫の目。
「とってもびっくりしました。そっかあ、一人で図書室にこもってる子は普通じゃないのかーって。それからはみんなに混じって外で遊ぶようになって、小学生の間はあんまり本も読みませんでした」
「でも今は読むんだ、本」
「中学になってまた本を開き始めて……けど、やっぱり学校の図書室には行かなかったし、周りにも本なんて読んでないフリをした。読むのも、現代物やミステリで……」
 そこまで言って、私はふいに黙り込む。
 唐突に、私の中に一つの光景が浮かんでくる。先生に呼び出されて、首を傾げながら職員室に向かう幼い私。その、手元に抱えた物の姿を。
「そうだ、思い出した……。先生に呼び出された時、ちょうど持ってた本がアリスだった」
 「へえ?」と先輩は明らかに面白がっている。
 彼からすれば今までの私は、本なんて開かないイマドキの女の子。その私が本に絡んだおかしな話をするのが、面白くて仕方ない、と。
 そんな先輩は、私にとってなんなんだろう。さっきからこの人はずけずけと私の中に入り込んでくるくせに、くるくる色んな顔をみせるから、掴めない。
「不思議の国のアリスを持ったまま職員室に行って……それからどうしたんだろう、思い出せない」
「図書室に戻ったんじゃない?」
「確か休憩時間が終わりかけてて。だから、そのまま教室に帰ったんだと思うんですけど」
「本は?」
「うーん、次の日に返しに行ったのかな……」
 あの日の、その後の行動が全然思い出せない。ただでさえおぼろげな小学生時代の記憶の中で、いっそうぽっかりと欠落している。
 思い出せ、あの後私は――

「――アリスの丘」

 ぽつり、とそんな言葉がこぼれ出た。先輩の目がますます細くなる。
「え?」
「わかんない、でもそう思いました。あの日、〝アリスの丘〟に私は行ったかもしれない」
 「町外れの?」と先輩が念押ししてくる。
 アリスの丘――それは町外れに位置する、小さな森に囲まれた小高い丘だ。緑化を推奨する市の計画の一環で、人工的に作られたものだった。
 当初は遊具や運動設備の設置など色々な計画があったらしいが、中途半端なところで頓挫して、結局何もない丘と荒れ放題の森だけが残った。
 本当は、東江市立なんとか公園っていう長い名前がついていた気がする。なぜアリスの丘と呼ばれるようになったのかというと、小さなバラ園があること(やはり手入れされていないけど)。そして、誰かが勝手に放したペットの白ウサギが野生化して、そのまま住み着いてしまっているからだ。
 バラとウサギから誰かが連想したのだろう。どこからともなくアリスの丘と呼ばれるようになって、気付けばそのまま定着していた。
「なんで、アリスの丘なんだろう……」
 私はおぼろげな記憶をたどる。
 私は担任に思いもかけないことを言われ、呆然としたまま、学校を抜け出してどこかへ走って行く。
 幼い私が丘の上を駆けていく。その顔は少しだけ泣きそうで、そして、

 ガシャン!

 ふいに店内に異質な音が響き渡った。ドクンと私の心臓が飛び上がる。
 そろそろと後ろを振り返ると、新米らしき店員が床の上で粉々になったティーカップを前に、オロオロと立ち尽くしているところだった。
「びっくりした。高級そうなカップなのに、もったいない」
「……はい」
 まだ速い鼓動をごまかすように、私はコーヒーカップを持ち上げて口をつける。ほろ苦さが、脈打つ全身を沈めていく。
 考えを巡らせても、さっきまで思いだそうとしていたものはすっかり記憶の底に沈んでしまって、幼い私もあの日の丘の光景も、もう見えなかった。
「ともかく……それが藍ちゃんが、アリスを読んだ最後だったんだね」
 先輩の言葉に、私はうなずく。その頃読みあさっていた児童文学を、以来私はぱったり読むのをやめた。不思議の国のアリスもその一つ。
 そして、その後開いたことは一度もない。小さなアリスの奇妙な冒険は、私の幼い記憶の中に埋もれたまま。
「あーお茶忘れてた。すっかり冷めちゃった」
 ふいに先輩が、いかにも残念そうな声をあげる。端正な顔が歪むのを、私はボンヤリと眺めていた。
 記憶をさかのぼりすぎたせいだろうか、夢から目覚めた直後のようなフワフワした印象を受ける。そんな現実味のない視界の中で、先輩は何事もなかったかのような顔で冷めたティーカップを持ち上げる。あくまでも優雅に。
「これだって立派なお茶会だよね。アリスの話にぴったり」
「順番が違いますよ。まだウサギの穴に落ちてもないじゃないですか」
 とっさに反論が出た。お茶会から始まるアリスの物語なんてあるもんか。そんなの、とんだフライング。そもそも私はコーヒーだし。
 けれど、私の冷めた反応を気にもせず、先輩は茶目っ気たっぷりに口元を持ち上げる。
「構わないさ。だってそれこそまさに、まだ〝何でもない日〟のお茶会だろ?」

***

 3.鍵のないドア

 『重大報告
  お昼休憩に女子トイレへ集合されたし
  いえーい、聞いて驚くな二人とも~~~!』

 妙なテンションのメッセージが、菜穗から私たち三人の仲良しLINEに放り込まれたのは、腹の虫も鳴り始めた四限目のことだった。
 即座に、驚いてるパンダと猫のスタンプが私と栞奈(かんな)のと二つ押される。対する菜穂からは、ふんぞり返っているハムスターのスタンプが返ってくる。
 どういうことか教えるように促すも、菜穂は『あとであとで』とはぐらかすだけ。そして、メッセージとスタンプの入り乱れた会話を、机の下でコソコソと繰り広げているうちに四限目は終わっていた。
 実に得るもののなかった一時間。でも多分、中だるみ真っ最中の高二なんてこんなもの。
 そして私たちはもちろん、チャイムが鳴った瞬間に立ち上がり、女子トイレへ駆け込んだ。
「で、どういうことよ。あれだけ騒いで大したことなかったら怒るよ。あんた前科あるんだから」
 長い髪をシュシュでまとめ直しながら、栞奈が思いっきり顔をしかめる。少しキツめの細い目は、不信感をまったく隠さない。
 対する菜穂は、余裕たっぷりに人差し指をくるくる回す。ついでに、小さなポニーテールがぴょこぴょこ跳ねる。
「ふっふっふっ、今度の今度は本物なのだ~!」
「やけにカッコつけるじゃん、菜穂」
 続く台詞は私。私と栞奈の焦れったい視線にさらされて、菜穂はひときわ得意げに胸を張った。
「なんとなんと! 東江大学の男の子たちと合コン取り付けちゃったあ!」
 一瞬間があった。そして次の瞬間、悲鳴のような歓声があがる。
「マジ!?」
「まじまじ~! 超まじ~!」
「あんたサイコー!」
「菜穂すごーい!」
「いえい、菜穂様と呼ぶのだっ」
 そろって黄色い声の一員となりながらも、私は一抹の不安を覚えていた。そんなことして大丈夫なんだろうか? 年中彼氏募集中の二人にくっついて、他校の男子学生と遊んだことは何回かある。でも、それとはレベルが違う気がする。
 そんなことをグルグル考えながら、私だって〝大学生〟という響きに心惹かれていたのもまた事実。まだ知らない大人の世界へのドアは突如として私たちの前に現れて、薄く隙間を開けて待っている。
「あさって金曜日の夕方から! もちろんみんな行くよねー!? もう三人行きますって言ってあるんだから!」
「当然!」
 菜穂の言葉に私たちは声を合わせる。
 こういう時、結局私は断らない。最後には興味の方が勝ってしまうし、それになにより、断るなんて空気の読めない行動をするのは、〝普通〟じゃない。
「年上カレシのチャンス! みんな、気合い入れてこ~!」
「どうしよ、いい服がないよー。ねえ菜穂に藍、今日の放課後服見に行こ」
「いいけど、でもそこは制服じゃん? ザ!じょしこーせー的な」
「藍さすがあざとい」
「菜穂ほどじゃないと思うな」
「確かに」
「ええ~! みんなひどーい!」
 他愛もない話を、わいわいぎゃーぎゃー言い合って大笑いする。そんな何の変哲もない輪に、違和感なく混ざれている自分を確認してほっとする。――そして、その安堵さえも気取られないように、私はヘラヘラと安っぽい笑顔を貼り付ける。
 その時、女子トイレの入り口で賑やかな笑い声がしたかと思うと、数人の女子の集団の姿が見えた。しかし私たちが手洗い場の前で陣取っているのに気付くと、中をチラリとのぞいただけで、背を向けて去って行った。
 それを見送って、ふいに栞奈がため息をつく。
「金曜日が待ち遠しいなあ。はあー午後の授業めんど」
 私はそれに応戦することにする。
「栞奈はどうせ授業中爪みがきしてるだけじゃん」
「そういう藍だって寝てるだけでしょ、さっきだってLINE来るまで爆睡だったじゃん」
 そう言われて、私はエヘヘと頭に手をやる。
「バレてたか。でも先生からは多分わかんないよ、直立不動で寝るの特技だから」
「わかってても高田は注意しないでしょ」
「それっ、国語の時間って睡眠時間だよね~」
 睡眠時間というほどいつも寝てるわけじゃない。今日はたまたま、昨日深夜までアガサ・クリスティを読みふけってしまったせいで眠いのだ。
 そんな、適当に合わせただけの私の話に、なぜかこの時は栞奈が食いついてきた。
「でも藍って、いっつも寝てるくせに国語の点数良いよね」
「確かに! コツとかある? 実はめっちゃ本読んでます的な?」
 菜穂の「本読んでます」という言葉には、若干の蔑みの色が混じる。
 この子はそういう子だ。陰キャラのガリ勉くんより、大人しい読書少女より、カレシ作って化粧してキラキラしている女子高生が一番偉いのだと、そう本気で思っている。
 だから私は、間髪入れずにわざとらしく片手を振る。
「ないない! 私活字アレルギーだから。コツはねえ……天性の才能ってヤツ?」
「なにそれ、なんかムカツクう」
「うそうそ、最近やけに勘が冴えまくっててさ。てきとーに丸つけてるだけ、なーんにも考えてないし」
 ヘラヘラ笑った私に、栞奈がパチンと指を鳴らす。
「それアレだ、そのうち幸運のより戻しが一気に来るやつ」
「そーなの! 今に私は赤点を取るのです、シクシク」
 そして私は哀れっぽく泣き真似をして、結果、無事に二人の爆笑を取って終わった。
 その後、私たちはかなり遅れたお昼ご飯のために食堂に出かけていく。そして戻ってきた教室で私は、隠し持った小説をカバンのよりいっそう深くに押し込んだ。

 ――とんだ嘘つきだ、私は。

 心の中ではずっと、そんな冷めた声が聞こえている。
 けれど、本なんて読まないと言ってしまうことへの抵抗はとっくに消えた。所々話をごまかしたって、もはや罪悪感すらない。
 例え読書のせいで寝不足だろうと、みんなの前での私は、本なんて読まないちょっと不真面目な女の子なのだ。
 だって私は普通だから。皆と同じ、勉強や読書よりも遊ぶことが大好きな女の子。キラキラしたイマドキの女子高生が最強と信じて疑わない、普通の女の子。
 だから私は、今日も上手に〝普通〟を生きる。
 もう幼い頃の私のように、不思議の国を夢見たりなんてしないのだ。

***

 落ち着かなくソワソワしているうちに、あっという間に金曜日はやってくる。
 その日、私たちは放課後になるなり学校を飛び出した。そして制服のチェックのスカートにブレザー姿のまま、デパートのトイレでおめかしにいそしんだ。
 化粧の仕方って、それぞれの性格が良く出ると思う。例えば栞奈は、使う種類も色もこだわりがハッキリしていて迷わない。対する菜穂は、終わりから最後まで、なんなら終わった後も、終始グダグダと悩み続ける。
「ねえ~、やっぱりオレンジのチークの方が良かったかなあ」
 ほら、こんな感じに。
「いい加減観念しなって、もう直す時間なんてないんだから」
 栞奈の呆れ気味の声に、菜穗は可愛くすねてみせる。
「だってえ、ピンクじゃ子どもっぽかったかなって」
「あーだいじょぶだいじょぶ。菜穂は何でもかわいい!」
 結局菜穂は、その一言がほしいだけなのだ。その証拠に、栞奈がお決まりのセリフを言うと、すっかりご機嫌を直してルンルンし始める。
 わがままでぶりっ子。でもかわいくて憎めない。私はちょっとだけ、彼女がうらやましい。
「ほら、二人とも着いたよ~!」
 菜穗がはしゃいだまま先陣を切る。彼女の後ろ頭では、気合いの入った編み込み髪が自慢げに自己主張している。
 着いた店の表を見上げると、「カラオケroom」とネオン管で書かれた文字。アリスの丘の隣に位置する一角は、雑然とした歓楽街になっていて、この店もその一つだった。
 その中へ菜穂に続いて入っていく。店員に相手の名前を言うと、向こうは先に入っているらしく、自然な流れで部屋へ通された。
 狭い廊下を一列になって進んでいく。同じようなドアがいっぱい並んでいて、そのどれも開けようと思えば開くはず。でも、今私たちが必要としてるドアは、その中のたった一つ
「ここだよ~」
 先頭を行く菜穂がヒソヒソ声で振り返った。廊下の奥の大きなパーティルーム。そのドアノブに菜穂が手を伸ばす。
 私はゴクリと固唾をのんだ。やっぱり少し緊張してる。このドアの先の、私の知らない世界に。

「わー来た! いらっしゃい!」

 開いたドアの向こうから、一気に明るい歓声が降ってくる。
「よく来たねー! ささ、座って座って!」
 金髪に近い髪色の、いかにもこういう場に慣れてそうな男の子が立ち上がり、自然な仕草で私たちを席へ促す。言われるままに長いソファに座りながら、私はテーブルを挟んで向かいあった三人の青年たちを見渡した。
 右端、たった今私たちを案内した、幹事らしき彼。真ん中はアッシュの髪にオシャレな黒縁メガネの人。そしてその隣は――
「あ、れ?」
 左端に大人しく収まったその姿を見て、私は思わず二度見した。丁度、相手も驚いたように目をまん丸くしたところだった。
「先輩」
「藍ちゃん」
 素っ頓狂な声は二人同時に。そこには、線の細い茶髪の優男が――白木先輩が、キョトンとした顔で私を見ていた。
 先輩と私は見つめ合ったまま、二の句が継げずに固まってしまう。そこに、「おいおい!」という元気な声が割り込んできた。
「お二人さんまさかの知り合ーい!? のっけからいい雰囲気作ってんなよ!」
 黒縁メガネの彼だった。少し乱暴な口調が、やや気取った風をかもし出す。
 その言葉にドッとその場から笑いが起きて、先輩は私からふっと視線を外し、困ったようにヘラヘラ笑った。

 ――なんか違う。
 
 反射的に、私の中でそんな言葉が反響する。なんか違う。確かに先輩なのに、なんか違う。
 私の知る先輩は、いつだって好きなところで好きなように足を組んで、周りのことなんて知ったことないように文庫本を開いていた。こんな風に狭い場所に大人しく座って、いかにも俗っぽい愛想笑いをするような人ではなかった。
 そう、先輩はいつでも〝きれいに浮いて〟いた。彼が作り出す彼だけの空間は、誰も邪魔できない、でも入ってしまえば誰一人として拒まない。浮いているのに、その空間ごと彼はその場になじむ。当たり前のように。
「なあなあ後輩ちゃん? だったらわかってると思うけど、こいつ変なヤツでさあ」
 メガネの彼はなおも私たちに絡んでくる。
「いっつも本読んでてさ、すげえ空気読めない場面でも読んでるし。飲み会もあんま来ないし、浮いた話もないし、心配になって今日はムリヤリ連れてきたんだよね。こんなイケメンなのにもったいないだろ? な?」
 「そうなの~? いがーい!」と、菜穂の可愛らしい声がする。メガネさんがじっと私を見て、「で、ご関係は?」と面白そうに笑う。
「私、高校の部活の後輩で」
「部活一緒!? めっさ知り合いじゃん、結構仲良かったりー? こいつ、高校の時からこんなんなの?」
 「おい、江波」と先輩の少し困ったような声がする。先輩から続きの言葉が出る前に、私はとっさに口を開いていた。
「えっと、一緒っていっても半年くらいしか一緒に活動してなくて」
 そんな言い訳めいた言葉は、なぜか喉の奥をひりつかせる。
「特に仲良しってこともなかったから、あんまり先輩のこと知らなくて。半年ぶりに会えて嬉しいです。今日は先輩とも、もっと仲良くなりたいな!」
 私はニコリと笑う。人のことなんて言えない、実に俗っぽい笑顔で。
 その間私は先輩の方に一度も目を向けなかった。だから、彼が本当はどんな顔をしていたのかはわからない。
 見たくない。こんな先輩を見ていたくない。私の知ってる先輩は、こんな風に歪に浮いた人じゃない。こんなに悪目立ちする変人なんかじゃ、ないはずなのに。
 なんだか今は、ただの変な人で――ちょっと、気持ち悪い。
「よし! 自己紹介! 何はともあれ自己紹介だ!」
 幹事の彼がパンパンと手を叩いた。「じゃあ俺から!」と元気な口調が続く。
「東江大学工学部一年、神垣哲也っす! 俺の弟が菜穂ちゃんと知り合いで、今日この会を開かせてもらうことになりましたー! みんな来てくれてありがとう!」
 哲也さんが言い終わるのを待って、隣の黒縁眼鏡さんが、眼鏡の奥のすっとした目を私たちに向ける。
「同じく一年、江波真(しん)。今日はよろしくなー」
「白木誠也です。さっきの話の通り、藍ちゃんとは高校の部活が一緒でした。よろしくお願いします」
 最後は、先輩らしい丁寧な挨拶だった。それすら、私は反応もしなかった。
「じゃあ次、女子のみんな自己紹介お願い!」
 テンションの高い声に促されて、今度は私たちが順番に名乗る。入念に考えてきたらしい思い思いの自己紹介が終わり、直後に丁度運ばれてきたジュースで乾杯する。
 その間ずっと、やっぱり私は先輩の方を見なかった。

***

「藍ちゃん、弓道部なのー?」
「そうなんですよー、真さんは何かやってるんですか?」
「俺サッカー! 弓道部ってことは、的バンバンあててんだ」
「いやあ、私そんなに上手くないですけど」
「ゆーてでしょ? ついでに、俺のハートも射ぬいちゃってよ」
 ……寒すぎる。思わず喉元まで出かけた言葉を、私は慌てて飲み込んだ。かわりに「ええ~どうしよっかな」と愛想笑いを貼り付けると、彼は気を良くしたようにコップに口をつける。
 ちらりと部屋の隅を見ると、菜穂と栞奈と哲也さんが、カラオケのタッチパネルを囲んでわいわい騒いでいた。合コンも後半戦にさしかかった今になって、ようやく歌い始めるつもりなんだろうか。
 ――早く、終わらないかな。心の奥でそんなつぶやきがよぎる。適当に話を合わせるのにも疲れた、早く帰りたい。
 私はいつも、少しの興味と義務感だけで二人についてきて、そして大体後悔する。どうして、息をするように笑ってしまえないんだろう。二人みたいに、何も考えずに楽しめないんだろう。
 ざわつく心は私の視線を泳がせて、つい先輩が座っていたはずの方角を見てしまう。先輩は、あれ――?

「あれ~? 白木さん、いなくなーい?」

 突然、菜穂の声が響き渡った。あまりのタイミングに、私は思わずビクリとして彼女の方を見る。
「あれ、確かにー?」
「さっきトイレ行かれましたけど、帰ってきませんね」
 真さんと栞奈が同調する。私は慌てて、不思議そうに首をかしげる。
「どうしたのかな、調子でも悪いとか? 探してきましょうか?」
 私の言葉に、哲也さんはどこか冷たい様子でフンと鼻を鳴らした。
「いや、別によくね? アイツ、どうせこういうのニガテなんだって。やっぱ変なヤツだよなあ」
「変っつーか……空気読めなさすぎ? もはや読む気がない?」
「あはは、そうかも」
 真さんが笑えない茶々を入れ始める。メガネの奥で、いかにも自信家な目がニヤニヤ笑っている。
「一年で飲んだ時もいまいち輪に入れてなかったよなー、人当たりはいいのに、さすがにマイペースすぎ」
「休憩時間もすぐ本開き始めるし。ちょっとは会話しろって」
 どうしよう、とても嫌な空気。すうっと息を潜める私の隣で、よせばいいのに菜穂が無邪気な声をあげた。
「なにそれ、根暗~?」
「可愛い顔して、ひっでー菜穂ちゃん」
「だって、菜穂そういうのきらーい。楽しくおしゃべりした方が楽しいもん! 真さんは違うんですかあ?」
「いやー俺もそう思う。気があうねえ、菜穂ちゃん」
 こういう他人をバカにし始めた時の菜穂は好きじゃない。黙ってくれないかな、と隣をのぞき見たけど、調子に乗った彼女のおしゃべりは全然止まらない。
「ですよねーわかんないですよね、そういう人! ていうか菜穂、本嫌いだし。頭痛くなるもん。菜穂だけじゃなくて、藍も活字アレルギーって言ってましたよ~!」
 いきなり話題を振られてぎょっとする。慌てて手をヒラヒラ振った。
「う、うん。そういうの全然ダメ! マンガが限界でーす」
 ざわり、と胸元からモヤモヤした感情が走る。
 妙に息苦しい。変なの。こんな嘘、いつもはいくらついても平気なのに。
「文字にかじりついて楽しいのかなあ~? 現実に面白いこといっぱいあるのに、ソンしてる」
 栞奈まで話に乗り始める。ねえ? と同意を求められて、私はとっさに口角を上げる。
「それそれ! 全部架空のお話なのにねえ」
 そして私は曖昧にヘラヘラ笑った。
 笑った、はずだった。
「藍? なんか変な顔してるよ?」
「え……」
 栞奈が不思議そうな顔を向けてくる。私は、「変な顔ってなに、どうせ地で変な顔だもん」なんて適当にやり過ごすセリフを頭の中で組み立てる。
 あとは言えばいいだけだ。俗っぽい作り笑いで、いつものように適当なことを言えばいい。

 ガタン

 私の膝とテーブルがぶつかり、乱暴な音をたてた。安っぽいセリフでごまかすかわりに、無言で突然立ち上がった私へ、一斉にみんなの視線が刺さる。
 品定めされているような粘つく視線。気持ち悪さをこらえて、私は精一杯ニコリと笑う。
「実はトイレがまんしてて! もう限界! ごめん、すぐ戻ってくるね!」
 そうして、誰の反応も待たずに、私は部屋のドアを押し開ける。

***

「やっちゃったかな……」
 カラオケ店の廊下の壁に背中をつけて、私は力なくつぶやいた。
 どうしよう、変に思われただろうか。さっきのはどう考えても不自然だった。
「戻れば、きっと大丈夫」
 そう。まだ、全部が全部終わったわけじゃない。五分くらいして、ごめんもう大丈夫~なんて笑って部屋に戻れば、みんな何事もなかったかのような顔をするだけだ。
 わかっているのに、足はどこにも進まない。あの部屋のドアを、どうやっても開けられる気がしない。

 ――君のいない日々なんて~♪

 私たちの部屋から、菜穂のかわいらしい歌声が聞こえてくる。どうやら本格的にカラオケを始めたらしかった。
 同じように、他の部屋からも多種多様なミュージックと人々の歌声が、うっすらと耳に届く。
 廊下にはたくさんのドアが並んでいて、その数だけ部屋の住人たちがいて、その人たちの小さな空間がある。
 ――でも、そのどれにも私は入れない。廊下から動けない私はどのドアにも弾かれて、その先のどんな景色も見ることはできないんだ。
 だって、私はアリスじゃない。だからドアの鍵も、ドアに合う背丈になるためのクッキーも持っていない。自分の仲間の部屋でさえ、同じこと。
「もう、やだな」
 雑音に紛れて、そんな言葉がこぼれ落ちる。
 私は上手くやっている。そう思っていた。上手に普通の女の子になれていると思っていた。
 ――でも、本当は違うんじゃないかって、時々とても不安になる。本当の本当に普通の女の子は、隠れてコソコソ図書館通いなんてしない。こんな風に、息苦しさを感じて逃げ出したりしない。私みたいに、嘘ばっかりついて生きなくてもいい。
 普通の日常に惹かれながら、空想の世界にも手を伸ばしたくなる。ここじゃない世界に憧れながら、けれどそんな普通じゃない自分を否定する。
 自分がすごく滑稽で、思わず乾いた笑いが漏れる。それは誰もいない廊下に響いて、うっすらと漂う雑音の中に溶けていった。

 私はアリスじゃない。
 日常へのドアの鍵も、不思議の国へのドアの鍵も持たない私は、どこに行けばいいんだろう。
 私は、いったいどこに生きているんだろう。

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