晴美
いつからだろう。
この世界から雨が消えてしまった。
空から水が降ってくるなんて信じない子供も増えてきた。
そんな世界で、私の両親は傘屋さんを営んでいる。
世界でも傘屋を続けているのは両親だけだと、子供のころに父に自慢されたことを覚えている。
「なんでパパは傘なんか作るのー?」
「もし、いつか雨が降った時に傘がなかったらみんな困るだろ。雨が降ってても傘の中は晴れてるんだぞ!すごいだろ」
そう言って、毎日楽しそうに傘を作る父の後ろで、コツコツ金具を叩く音を聞きながらお昼寝するのが私の日課だった。
『二番線、東京行き、間もなく発車致します』
思い出に浸っていると、駅のアナウンスの声で現実に引き戻された。
あんなに大嫌いな家だったのに、こういう時だけ温かい思い出だけが蘇るのはずるい、
そんないたずらをする神様に心の中で「あっかんべ」をして私は電車に乗り込んだ。
私は両親が傘屋をしていることが、嫌で嫌で堪らなかった。
そして、18歳に実家を離れて上京することを決めていた。
でも初めは違う。
「ママ!今日はこの傘がいい」
「もー!毎日違う色の傘じゃない、晴美は何色が好きなの?」
「うーんとね…全部!」
私はお父さんが作る傘が大好きで、雨なんか降らなくても、傘を差して登校していた。
そんなある日に、誕生日プレゼントで、ある模様の傘をくれた。
「この模様可愛い!」
「これはね、水玉模様って言うのよ」
「私の好きな色いっぱいある!赤も黄色も青も緑も!」
「晴美欲張りだから、お父さんが特別に作ってくれたのよ」
「やったー!……あれ、水玉模様ってことは雨はこんなにカラフルなの?」
私がそう言うと、お母さんは笑いながら、
「そうよ、だから晴美のお気に入りの白いワンピースも雨でカラフルになっちゃうのよ」
「雨嫌い!」
すると、お母さんは傘を持ってきて自慢気に決めポーズをして
「でもね、そんなときに役に立つのがこの傘なのよ!ワンピースを雨から守ってくれるの!」
「わぁ、傘ってすごい!私この水玉模様の傘大好き!」
そうお父さんのいる仕事場に向かって叫ぶと、金具を叩く音が聞こえてきた。
ずっと一緒にいると、お父さんの喜怒哀楽は金具を叩く音で分かるようになっていて、それは今までで一番楽しく嬉しそうな音だったのを覚えている。
ジリリリリリリーーー
電車の発車ベルが鳴り響く。
温かくて幸せな走馬灯を見ていた私の太ももには、瞳から零れ落ちた涙が降っていた。
「ごめんなさい、行ってきます」
ーー3か月後ーー
私は晴れた空の下、汗を流しながら高層ビルの隙間を駆け回っていた。
地元にいた頃にはテレビの中の別世界だった大都会で私は生きている。
そう昂っていられたのは最初の1か月間だけだった。
「高卒じゃこんなもんだよな」
「辛いなら地元に帰ればいい」
心のない言葉を上司たちに毎日のように言われ続けて、毎晩枕を濡らしていた。
それはまるであの頃の私のようだった。
「お前の親ってバカなの?」
「傘屋の娘の名前が晴美って笑えるな」
「こいつ雨がカラフルって言ってるぞ!あはははは」
小学校の高学年になってから私はいじめられていた。
雨なんか降らない世界で傘を持っていたのがきっかけだった。
大好きだったお父さんの傘は、私の心を傷つける凶器になっていた。
「お母さん、ごめんなさい。転んだ時に傘折れちゃった」
そう言って、最初は、みんなにバキバキに折られた傘をセロハンテープで必死に直して誤魔化していた。
でも気づいたら私は
「こんな物のせいで私はバカにされるの!こんな仕事もう辞めてよ!」
と叫んで、両親の前で大好きだった水玉の傘をバキバキに折ってしまった。
その次の日もいつも通り傘を作る父親の後ろ姿に「大嫌い」と呟いて父親との会話はなくなった。
ピンポーン
昔の事を思い出していると、突然インターホンが鳴った。
驚きながらモニターを覗くと宅配便の人が立っていた。何も注文した覚えはなかったが、ドアを開けると今まで見たこともないような小さな可愛らしい段ボールが届いた。
送り主は実家。
時々、お母さんが野菜いっぱいの仕送りを送ってくれるが、仕送りにしては小さすぎる、大きなトマトが1つ入るくらいのサイズ。
不思議に思いながら箱を開けてみると、そこには折ってある紙が1枚と、手作りの小さな傘のキーホルダーが入っていた。
それを見た瞬間に、この荷物を送ってくれたのがお父さんだと察した私の目には涙が溜まっていた。
その涙がこぼれるのを止めるかのように、突然携帯が鳴った。
画面を見るとお母さんからだった。
「もしもし」
電話に出ると、荷物がちゃんと届いたかの確認の連絡だった。
「そう、ちゃんと届いてたのね。なんかお父さんが急に送るって言い始めて1人で郵便局に行ってたから届いたのか少し不安でね」
「ねえ、お母さん」
「なに?」
「お父さんは私が上京することに反対しなかったの?」
「賛成だったわよ」
意外な回答だった。
お父さんは昔から、私が大きくなったら一緒に傘を作るのが夢だと語っていたからだ。
「そうなんだ…」
無意識に私は寂しそうな声で返事をしていた。
「あのときのお父さんと同じ声ね」
「あのとき?」
「お父さんはね、あなたが家を出るって言った日の夜『俺は傘を作り続ける、だからあいつには新しい環境で幸せになってほしい』って今のあなたみたいな声で話してたわよ」
「そうなんだ…」
そのことを聞いて、不思議と驚きはしなかった。
お父さんのその優しさには、心のどこかで気づいていたからだと思う。
「いつでも帰っておいでね」
昔と変わらないその優しい声に自然と私も昔のような無邪気な声で「ありがとう」と答えていた。
電話を切って、私はお父さんから送られてきた箱を持ってソファに座った。
もう一度、箱を開けて傘のキーホルダーを手に取った。
「かわいい……」
その傘の模様は、あの水玉模様の傘と同じものだった。
しばらく観察してから、一緒に入っていた紙を思い出して、箱の中からその紙を取り出して広げた。
そこには
『雨傘は必要ないかもしれないけど、今の晴美には涙傘は必要だろ。お守りに使ってくれ』
と書かれていた。
「…………」
私は紙に書かれていた言葉を読んで、しばらくの間、泣き続けていた。
手に持っていた傘のキーホルダーに降り注ぐように目からこぼれる涙はまるで雨のようだった。
「……ありがとう」
ーー1年後ーー
「少しは休めよ、頑張り屋さん」
そう言って部長が私のデスクにコーヒー置いてくれた。
「だから部長!私ブラックは飲めませんてー!」
「あはは、ブラックも飲めない先輩なんて嫌だよな、菊池」
「いや……あははは」
後輩の菊池が困った顔で笑っていた。
「ねえ!今誤魔化したでしょ!」
「あはは…」
「こらー!」
私は都内の暮らしにも慣れて、仕事では後輩もできて、やりがいと手応えを感じていた。
この一年間はずっと仕事モードだったから、しばらく両親とは連絡を取れずにいた、そんなある日。
「みんな今日はもう帰ってくれー」
まだ出勤してから2時間くらいしか経っていないのに、上司が窓の外を見ながらオフィスにいる社員たちにそう伝えた。
ちょうど切りの良いところだった私は作業を止めて辺りを見回すと、社員全員が窓際に集まってスマホを窓の外に向けていた。
「おい!外見て見ろ」
「うわぁ!本当に降ってる…」
その日は、数十年ぶりに世界中で雨が降ったのだ。
雨に慣れていない交通機関がマヒするかもしれないという事で早めの退勤となった。
「雨……」
私は両親の事を思い出していた。
お母さんの優しい笑顔とお父さんの傘を造る後ろ姿。
いつの間にか私は走り出していた。
心臓がドキドキする。
走っているからじゃない。
子供の頃からの夢が叶うかもしれない期待へのドキドキだ。
そして外に飛び出した私は、目の前に広がる光景に涙を流した。
街中一面がカラフルな傘で溢れていた。
赤、青、緑、黄色、街中を絵の具で描いたような景色。
歩く人の足元にある水溜りは、みんなが差している傘を反射して映していた。
それはまるで、カラフルな雨が降っているようだった。
その景色を見て、小さい頃の会話を思い出していた。
『あれ、水玉模様ってことは雨はこんなにカラフルなの?』
『そうよ、だから晴美のお気に入りの白いワンピースも雨でカラフルになっちゃうのよ』
「お母さん、ほんとに降ってるよ。カラフルな雨」
「先輩なにか言いました?あれ、泣いてるんですか!?」
「え!?ううん!」
街中を眺めている間に、ほかの社員たちも会社からゾロゾロと出てきていた。
「そうっすか、てか先輩もしかして傘持ってきてないんですか?」
「傘!?あ、ないや…あはは…」
「先週からニュースで大雨が降るって騒いでたじゃないですか!これ貸しますよ!」
そういうと菊池が可愛い水玉の傘を渡してくれた。
「ありがとう。あ、これ……」
その傘には見覚えのある傘屋のロゴ。
『Beautiful sunny』
あぁ、そうか。この街中の傘は全部、お父さんが作った傘なんだよね。
「なんか皮肉な名前ですよね、傘屋さんなのに『美しい晴れ』だなんて」
「ううん、『雨が降ってても傘の中は晴れてる』んだよ。だから『Beautiful sunny』なんだってさ」
「へー!なるほど!……でもなんで先輩そんなこと知ってるんですか?」
「あはは」
そう言って私はカラフルな街に飛び込んだ。
「ねえ、パパ」
「どうした?」
「なんで私は晴美って名前なの?」
そんなことを小さい頃に聞いたことがあった。
「前に晴美には話したよな、雨の日も傘の中は晴れてるんだって」
「うん!」
「だから、晴美が生まれたときに、パパとママで約束をしたんだ」
「なんてー?」
「『この子に辛いこと苦しいことが降りかかったら、俺たちがこの子の傘になって守ってあげよう』って。じゃあ、お父さんの造る傘の名前はなんだっけ?」
「びゅーてぃふるさにー!」
「そう!それは日本語で『美しい晴れ』って言うんだ。だからパパとママの傘に守られてるこの子の名前は晴美にしようって」
ーー数日後ーー
懐かしい景色。
いつぶりだろう、私は両親の住む町へ帰ってきた。
青空の下、水玉の傘を差して駅から歩いていると、遠くにお父さんとお母さんの姿が見えた。
「おーーい!」
私は2人のもとへ駆け寄った。
「こんな晴れてるのになんで傘差してるんだよ」
「いいじゃん!私この水玉模様の傘大好き!」
そう答えると、お父さんは恥ずかしそうにしながら私に言った。
「おかえり」
あの日以来、雨が降ることは1度もなかった。
でも、街をカラフルに染めた傘の景色に感動したのは、私だけではなく世界中の人たちの心も動かした。
そして、クリスマスやハロウィーンのように、雨の降った6月13日は毎年世界中で傘を差すイベントになった。
6月13日「Beautiful sunny day」