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多分、 私はもう戻れない。

多分、私はもう戻れない。
そのことは随分前から気づいていたし、知っていた。
見ないふりをする訳でもなく、ただ、そんな私と一緒にいることにしていた。

この生き方を望んでは無かった。

いつだって、誰にでも優しくて 丁寧で気が利いて、 ”素直な Senaちゃん” を求められていた。私の生きる術は、”素直” と "優しさ" を両立して演じることで、親が関わる全ての場所は舞台で、主役は私だった。

主役の私は その快感と痛みに溺れた。10代になって 演技をしていることに気づいてからも、黒く重い衣装を脱ぐことは出来なかった。いつの間にか照明は消えていて、それでも演技の難易度は上がっていくばかりで、私は せめてもの快感を求めて、舞台で踊る様子を言葉と写真で伝えた。

そうして、 私は壊れた。

私が着ていた衣装は、とっても綺麗だったのに。恐怖と寂しさと悲しみが染めていた。黒くても重たくても、軽やかに笑って舞っていれば 綺麗だったのに。疲弊した私は、もう踊れなかった。

いっそのこと怪我なら良かったのに。でも 怪我ですら無かった。回復を待つ入院も、薬も、優しい言葉も、私を踊らせてはくれなかった。そこには何も無かった。

私は ステップも忘れて、舞い落ちることを決めた。

それから数日、世界が輝いていたこと、目に映る全てが愛おしかったことを感覚として覚えている。そして 宙に舞う瞬間、 私は数秒遅かった。救われた とか言うらしい。

何でもない景色が綺麗で、仕事で接する人にも輝きを感じて、世界が愛おしくて。それをもう1度感じられるなら、何度でも舞い落ちてやると思った。潰れたって一緒だったから、その感覚を何回も追い求めた。

追い求めて繰り返しながら 7年が経った。


7年の間に、私は新しい舞台を見つけた。知らなかった踊り方、演技の見せ方、立ち回り方を覚えた。

閉ざされてた舞台のカーテンを開けると、いろんな姿を目にした。

転んだことを悔やむ姿、口を閉ざして練習を続ける姿、隅で息を殺し痛みに耐える姿。差し伸べられる手を必死に掴む手、感情を捨てた目。
私と同じ姿をしている人だけが集まる場所で、私は演じる必要が無かった。心地よい、とろりとした場所に浸って 6年が経った。


昨年 私はそこから出るために、重い扉を押し開けた。これまでのように少し顔を出してみるだけじゃなくて、完全に外に出て 息を吸って 手足を伸ばした。重たい扉を押し開けた代償で あちこちが痛んだけど、戻ろうとは思わなかった。後ろを振り返ると あの場所は無くて、 その感情を言葉に出来ず、私は声をあげて笑い 滑らかに踊った。

本当は痛かった。得られなかったステップのことを想った。
そして、今までの舞台を演技を振り返って、本当に悔しいと思った。

だから これからの舞台を作る監督に、 私を指名することにした。

そこには 一緒に踊る人がいて、手を叩いてリズムを取ってくれる人がいて、一緒に休もうと言う人がいて、一緒にお喋りをする人がいる。慣れていない私は、いつだって泣きそうになってしまうけど 優しく叱ってくれる人もいる。

時にぎこちなく舞い、時に舞台に登ろうとせず、時に滑らかに飛ぶ、そんな私を見てくれる人がいる。見たいと言ってくれる人がいる。

あの輝く愛おしい世界を追いかけてない事に、後悔はしていない。

今の生き方には自信がある。
この選択を後悔してない事が成功だろう。

そう言って背筋を伸ばして踊る演技を、私は今日も笑ってる。

意志を持ってない生き物ほど 重いものは無いから。
Sena. 🩰

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