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自分を信頼するってどんなこと?

先日MOTOKO塾(勝手に呼んでいる、クレームが入ったらやめる)のシータヒーリング®︎ インチュイティブアナトミークラスを聴講させてもらった。

わたしは去年の10月〜11月にかけて15日間受講した。
仲間と己に向き合い続けたあの日々、、、
まだ一年も経ってないの!?笑 という感想。

そこで問いかけられたもの

『自分を信頼』するってどんな事?
『リラックス』してるってどんな感覚?

この二つは繋がっているらしい


わたしはこれまでリラックスするという事が下手だったと思う。
思うというのは、頭でわかっちゃいたけれど、それ以上に気づかないくらい自然に苦手だったように感じる。(変な言い方だけど)

リラックスしないようにしていた。
する事ができなかった。
する事を許して来なかった。

あぁ、出てくる出てくる;

それは勝手に敵を作っていた、いやいや、外に敵がいる設定にしていた、とか。
頑張る自分を保つため、忙しい自分でいる為、それはなぜかというと、、、

とどんどんオートで掘り下がっちゃうんだけど、笑

今日は信頼の方がより書きたかったのだ。

皆さんは『自分を信頼する』と聞くと、何が浮かびますか?

わたしは最初「うーん、最近やっとできるようになって来た?その最中?」と浮かんだ気がする。

あまりその事について掘り下げるキーワードピンと来ないなぁ、なんて思っていたけど、なんてことはない。

しっかりと隅の方に「お母さん」が浮かび上がっていた。

お母さんとそして外、という感じ。

“自分以外の外“に、明け渡していることにしていたな〜という感じ。

その実誰も何も信頼していない。

自分しか信じられない。

おいおい待て待て、そもそもその自分も信じられないのに。笑

という皮肉な自分の声もして来ます。

元を辿ろうとすると、

「小さい頃からわたしは親に信頼されて来なかった。あれこれ怒られて、あれこれ口を出され、あれこれ制限されて来た、、、」

という、憎しみたっぷり溢れるスネ饅頭わたしがほかほか出来上がる。

のは、ちょっと前のフェーズだ。

自分の本ちゃんアナトミーから散々やり尽くしてもう飽きた。笑

これも全ては“そういう事にしていた“設定なんだけど、今日は飛ばす。

まぁ遠かれではないのだけど、今回紐づいて浮かび上がったのは、16歳の自分。

人生初!(と言っていいと思う)自分の選択を後悔し切るしかないくらいショックな出来事が起きて、その経験と感情をどうにもできずにいた時。

今になれば、まぁ経験だったよね。と思うけれど、当時のわたしにはとてつもなく辛い経験とその後の日々だった。

「『人生は小説より奇なり』とは言うけれど、まさにそれだ、、、」

なんて思っていた。

なんかこの時点で既にドラマチック感じちゃってるよね。笑

そんな今までに経験した事のない絶望のようなものの中で、人生終わったと思っていた。

その時はこの表現知らなかったけど、“人生詰んだ“ってやつ。

なんかこの言葉の方がその後の逆転劇への期待を感じるね。笑

そもそもそんな経験もういらないからこれ以上それについて深堀するのは辞めておこう。笑

「あぁ、わたしの思い描くまではいかなくとも、薄っすら希望しかないと思っていたわたしのこの先の人生図はもう無くなってしまったんだ。もう素晴らしい人生、輝かしい人生なんか歩めないんだ…」

と、打ちひしがれていた。

今からするとツッコミどころ満載だがこのまま進もう。

その時わたしはどうしたかと言うと、日々後悔の言葉を吐くしかできなかった。

お母さんに。

他に聞いてもらえる人なんていないし、許してほしかったんだろうと思う、お母さんに。

そして誰より自分に。

「あぁしなければよかった。失敗した。あの時あれを選ばなければよかった。こんな風にはならなかったのに。」

自分では抱えきれない後悔とその下にある辛さと悲しみを、「お願いお母さんも一緒に持って、辛くて持ちきれないの。今にも沈んでいってしまいそうなの、助けて、、」と一生懸命伝えていたんだと思う。

そして「わたしこんなに反省しているの。こんなになってしまってごめんなさい。どうか許して」とも懸命に訴えていたんだと思う。

その時お母さんに言われて救われたなぁと思ったのは、

『しょうがない』の一言。

『しょうがないじゃない。あの時はわからなかったんだから。起こってしまってどうにもできない事はしょうがないと思って、これからまた前に進むしかない』

と、言ってくれた。

『しょうがない』

この時はもう何も考えずにこれに縋るしかなかったし、いっ時の痛みを忘れる特効薬にもなったと思う。

しょうがない、しょうがない、諦めるしかない、、、

そう、なんかちょっと今思うと残念な方向に解釈して、その後も事あるごとにこの言葉を繰り返していたように思う。

立派に諦め癖の言い訳に据え置いた。笑


ここでちょっと話が逸れるんだけど、子供は許される事でこの現実での愛を感じる事ができるんだって。

無条件の愛とは別の、この人間世界で感じる愛。

そして、その愛を知っていると、リラックスして生きる事ができるらしい。

『許される』感覚

どうですか?

『自分を信頼している』

『許される感覚を知っている』

『リラックスしている時の自分』

これらは全て繋がっている感覚。

わたしはずっと許されなかったと思って生きてきました。

「子供の頃に許されなかった。自分は悪くなかったのに謝らされた。だからこんな人生なんだ、、、!!」

と、憎悪と本当は甘えたかったのに、悲しみ辛みぴえんのてんこ盛り沢山感情を抱えながら。笑

でもね、気づいてしまった。

わたし、許されてきたやん。

お母さん『しょうがない』いうたの、許してくれてたやん。

それからも、いや生きてからもこれまで、結果許されてきたやん。

わたし今生きてるやん。ここに在るやん。って。

気づいてしまいましたわぁー

確かに子供の頃に「許されなかった」と思った経験をしたかもしれない。

もっと手放しで受け入れて欲しかった、認めてほしかった、いろんな感情感じた。

でも、いつだって許され続けて来てた。

いつだって自分を許さなかったのは自分だった。

それさえも、本当は許して欲しいってずっと言い続けると共に、許してきたんじゃない?

って。

だって今のわたしがいるから。

極論許されずに生きていられる人はいないんじゃないか?なんて事も浮かぶけど、ここも今日は掘り下げずに行こう。

そう、そして子供の頃に『許された』という経験をして来なかった人は、早くに大人になった。なろうとして来たらしい。

それはどうして?どうして早くに大人をやろうとしたの…?

に繋がってくる。


それもまた今度にしよう。

(そればっかりやないかい)

ゆるす

そんなこんなで、じゃぁわたしにとって『自分を信頼するって何?どんな事?』っていうと、、、

わからん。

『わかんないけど、ただ在る自分。以上。まる』

正直こんな感じ

今はそれ以上もそれ以下も浮かんでこない。

ただそれを認める。受容する。おけ。

って感じ。

大それた答えないけど、それでいいんじゃないかな?

オチもないけど(オチ?)

これで締めくくる。

ゆるす!!


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