見出し画像

大体1ヶ月で読めるシャーロック・ホームズ〜緋色の研究〜 2日目

前回のあらすじ

戦地で負傷しロンドンに帰国したこの文章の著述者ワトソンは、新たに住む場所を探していたところ、バーで偶然あった旧知の知人に同居人候補を紹介される。そして、二人は彼のいる病院の化学実験室へと向かった。

第1章 ② ミスター・シャーロック・ホームズ

 ここは私のよく知る場所で、特に案内の必要もなかった。吹きさらしの石階段を登っていき、両脇に真白く漂白された壁と時に見える茶褐色の扉を眺めながら、長い廊下をずんずん進んでいった。突き当り付近まで行くと、左右へゆるくアーチ状に道が分岐しており、化学実験室へと続いていた。そこは、平地から一段高くなっているロフトのような部屋だった。無数の瓶が整列していたと思えば、無造作に散らかっているところもあった。広く低い机がそこらに点在し、上には蒸留器や試験管、青白い焔揺らめくブンゼンランプなどに満ちていた。そこにはただ一人の学生しかおらず、遠く向こうの離れた机で腰をかがめながら、作業に没頭していた。私たちの足音が聞こえたようで、こちらを向いて立ち上がり、何やら喜びの叫びを挙げた。「発見したぞ! ついに発見してしまった!」 彼は試験管を持ってこちらへ走ってきて、私の友人に向けて大きな声で言った。「ヘモグロビンは沈殿するけど、それ以外の物質は沈殿しない試薬だ。」 彼は金鉱を見つけたとしてもこれ以上喜ぶことはないだろう、というほどの喜びを表情満面に浮き上がらせた。

 「こちらは医師のワトソンで、こっちはシャーロック・ホームズ。」 スタンフォードは、私たちを紹介し合わせた。

 「体の方は大丈夫?」 彼は本当に心配するように言って、私の手を固く握ったが、力があまりに強く、すぐに挨拶を返せなかった。「君、今までアフガニスタンにいたよね。そんな気がする。」

 「え、なんでそんなことわかるの?」 私は、驚いて聞いた。

 「ああ、ごめん。気にしないで。」 彼はそういうと、一人でくすくす笑った。「目下重要な議題はヘモグロビンだ。君もきっと、この発見の素晴らしさがわかるよね?」

 「そりゃ、化学的な見地から言えば、きっとすごいことなんだと思うよ。」 私は答えた。「でも、実用的かというと....。」

 「おいおい、どうしてだよ。間違いなく、ここ数年で最も実用性に富んだ発見だよ。もちろん、医師法的にも合法だ。これを使えば、誤判定の無い血液反応検査ができるんだ。どう、見てかない? よし、こっちに来て!」私は、コートの袖を強引に掴まれ、机の向こう側の作業場所まで、引っ張って連れて行かれた。「新鮮な血液を採取しよう。」彼はそういうと、千枚通しの長い針を指に刺し、出てきた血液の玉をピペットに入れた。「それではー、この少量の血を1リットルの水に入れます。一見すると、出来上がったこの混合液は純粋のようにみえる。確かに、血液の濃度は100万分の1を超えないはずだ。でも間違いなく、特徴的な反応が見られるはずだよ。」 そういいながら、いくつかの結晶を容器に入れ、透明な液体を数滴加えた。すると、内容物は薄いマホガニー色を帯びて、茶色っぽい粉末状のものがガラスの容器の底に沈殿した。

 「はっ、はっ!」 彼は手を叩き、子供が新しいおもちゃを得たように喜んだ。「感想は?」

 「何やら、塩梅の難しそうな実験に見えたけど。」

 「あー、すばらしい。すばらしいよ! 昔ながらのグワイアカム草(血液に青く反応する)を使った検査法は、やりづらいし結果も不安定だったんだ。血球を顕微鏡で直接見るっていう方法もあるけど、それも同じようなもんだね。2,3時間も経てば血液が古くなって、顕微鏡の実験では使いもんにならなくなるし。でも、僕の発見した方法なら、血液の新しい古いに関係なく機能する。もし、これがずっと前に発見されていたらと思うと....。今のうのうと地上を闊歩しているけど、本来は犯罪の報いを受けるはずだったやつが、無数にいるんだよ。」

 「本当だよなー。」 私はぼやいた。

 「犯罪事件はいつでも、この血液検査という重要な要素に左右されるんだ。例えば、ある男が数ヶ月前の犯罪事件に関して、嫌疑をかけられているとしよう。彼の服が徹底的に調べられて、茶色っぽいシミが見つかったとする。これは、血によるものか、泥によるものか、それともサビか果汁か、それ以外か。専門家をも大いに悩ませる問題だ。でもどうしてだろう? 信頼できる判定法がなかったんだ。しかし今やこの私めが、シャーロック・ホームズ法とでも言えるものを知っている。もう、心配事は何もない。」

 そう話す彼の目はらんらんと輝いていた。彼は、胸に手を当て、想像の魔法で生み出した拍手喝采の聴衆を前におじぎをした。

 「確かに、称賛すべき業績だね。」 私は、彼の熱意にかなり圧倒されていた。

 「去年、フランクフルトアムマインで、フォン・ビスコフが容疑者になった事件が起きていた。やつは、この検査法があれば絶対に逮捕されていたはずだ。そして、ブラッドフォード(イギリス)のメイソン、あの悪名高いマラー、モンペリエ(フランス)のルフブル、ニューオーリンズ(アメリカ)のサムソンも。いくつでも挙げられるよ、この検査が決定的になったはずの事件が。」

 「生きる犯罪辞典かよ。」 スタンフォードは笑っていった。

 「その線で論文でも書いたほうがいいよ。題名は「過去に起きた犯罪の新情報!」って感じでね。」

 「それは、なかなか面白い論文になりそうだ。」 シャーロック・ホームズはそういうと、指の傷に絆創膏を貼った。「やっぱり気をつけなきゃね。」 そう続けながら、笑みを浮かべて私の方を向いた。 「僕は、結構な量の毒を、水遊びみたいに使っちゃうから。」 彼はそういうと、手を差し出し、小さな絆創膏たちでできた斑点と、強酸で漂白された肌が見て取れた。

 「俺達は、話し合いがしたくてきたんだよ。」 スタンフォードはそういうと、3脚の高い椅子に座り、もう一つ別にあった椅子は蹴って私によこした。「ここにいる友人は下宿を探してて、お前は家賃を折半する同居人がいないと嘆いていた。だから、お前らを面会させようと思ったわけ。」

 シャーロック・ホームズは、やっと同居人が得られると考え、喜んでいるようだった。「ベイカーストリートの、リビング・キッチン・ダイニング・家具、その他諸々揃った良い物件に目をつけてるんだ。」 彼はいう「きっと、僕らどっちも気にいると思うんだけど。濃いタバコの匂いは大丈夫? そうだといいんだけど。」

 「いつも、船乗りの作る濃いタバコを、自前でつくって吸ってるから大丈夫だよ。」 私は答えた。

 「それはよかった。あと、大概化学薬品を持ち歩いていて、時々実験もするんだけど、気に障ったりしないかな?」

 「いや、少しも気にしないよ。」

 「じゃあ....、僕の他の欠点は何だろう? 時々憂鬱な気分になって、何日間もずっと口を開かないときがある。そのときは、別に不機嫌じゃないから、そんなふうに思わないで欲しい。ただ一人にしてくれたら、すぐに良くなるから。君の方は何か自分のことで、告白しておきたいことはある? 人間二人が生活するんだから、一緒に住み始める前に、互いの悪い部分を知っておく方が良いよね。」

 私は、この反対尋問みたいなものに笑ってしまった。「うーん。ブルパップ銃(ブルパップは銃の方式)をもってる。」 私は言った。「後、うるさい音が嫌い。神経がかき乱されるから。起床時間はめちゃくちゃで、相当怠け者。気分が良くなると、例によって悪い癖が出てくるかな。言っておきたいのは、主にこれくらいだね。」

 「君のいう”うるさい音”っていうのに、ヴァイオリンの演奏は入る?」彼は心配そうに聞いた。

 「どんな演奏かによるね。」 私は答えた。「上手なヴァイオリンだったら、さながら神へのご馳走ってかんじだけど、下手なのだったら犬のえ.....」

 「あー!、だったら全然大丈夫だよ。」彼は、陽気に笑って言った。「どうやら、問題はなさそうだね。もちろん、部屋がお気に召すかは別だけど。」

 「部屋の方は、いつ見に行こうか?」

 「明日の12時に、ここに来てくれない? そしたら一緒に行って、全て終わり!」

 「オッケー。正午きっかりに行くよ。」 私は、彼と握手をしながら言った。

 私たちは、薬品に囲まれながら作業をする彼を置いて、一緒にホテルへと向かった。

 「ところでさ。」私は不意に止まって、スタンフォードの方を向くと、聞いた。「いたいどうして、アフガニスタンにいたことを知ってたんだ?」

 友人は、意味ありげな微小を浮かべた。「それは、やつの特殊能力だよ。」彼はいう、「あいつがどうして、色々なことがわかってしまうのか、沢山の人が知りたがってる。

 「ミステリーってことだね!」 私は、手をこすらせながら言った。「いや、とても興味深い。お前に感謝しなきゃいけないな。俺達を引き合わせてくれたんだから。『人間たるもの人間を探求すべし』(詩人アレキサンダー・ポープの言葉)ってことかな。知ってる?」

 「知ってるさ。『お前があいつを探求すべし』ってことだろ。」彼はそういうと、じゃあと別れを告げた。「ああ、でも。一筋縄ではいかない問題だと、思い知るはずだよ。お前もあいつに関していくらか情報を得たと思うけど、あいつはお前に関して、それよりも遥かに多くの情報を知っているはずだから。賭けてもいいぜ。じゃあ、またね。」

 「じゃあ。」 私はそう返答すると、歩いてホテルへと向かった。新しい友人への興味が冷めやらぬままに。ー

3日目 第2章「演繹の技法」へと続く。