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ヘラルボニーを通して思い出した、祖父のこと


ヘラルボニーを通して思い出した、

障がい者の祖父のことを書く。


ヘラルボニー。

私の彼が好きな会社であり、デザイン。

彼のスマホカバーも、家のカーペットもヘラルボニー。


会社の理念や彼が使っている理由を知るまでは、

ただただ、
「派手なデザインだなー」
「カーペットの柄、落ち着かないのよねえ」

なんて思っていた。

でも、ヘラルボニーを取り上げた回のガイアの夜明けを見てから、視点は変わった。


障がい者の人たちが異彩作家としてつくった作品が、世の中に出て、世界で称賛される



そのコンセプトが、本当に素敵だと思う。


多分ヘラルボニーに心が惹かれるのは、私も家族に障がい者がいたからだろう。


私の祖父は、脳卒中による右半身麻痺で左半身しか動かせない障がい者だった。

私が生まれた時にはすでに障がい者で。

いつも右足を引きずって歩いていたし、支えがないと歩けなかった。

話すことができないから、「あー」「おー」と祖母を呼んでいたし、
何を聞いても「うん」としか答えない人だった。


一緒に外出すれば、周りからは哀れみの目や好奇の目にさらされた。

私は祖父が好きだったから、そんなふうに見てくる周りの人達が嫌いだった。

祖父は、可哀想な人なんだ。

そんな固定概念を、自分が自分に植え付けていたように思う。
そして、世の中は平等を謳いながら全然平等ではないのだなと、子どもながらに感じていたかもしれない。


50代で倒れ、障がい者になった祖父。
そこから30年以上生きた。

祖父が亡くなったのは、私が大学4年の時だった。

就活真っ只中の夏だった。


お葬式の時に、ふと思ったのだ。

祖父は、幸せだったんだろうか?と。


障がいを持ってから30年。
伝えたいことも伝えられない、一人で着替えもできない、行きたい場所にも行けない。


「うん」としか言わないのは、話せない自分への歯痒さに苦しんで、もう伝えることをあきらめたからなんだろう。

私は祖父のことを、そんなふうに思い込んできた。


それなのに生きていた時、
私が知ってる祖父はいつもニコニコしていて。

右利きだった祖父だけど、

ご飯も左手で自力で食べていたし、

トイレにも自分で行っていたし、

利き手ではない左手だけで、切り絵もこなした。


どれだけの努力をしたら、それだけ出来るようになるんだろう。
その努力を思うと、心が切なくなるけれど。



祖父は、本当に可哀想だったんだろうか?


今回ヘラルボニーの特集を見て、その考えは少し変わった。


もしかしたら、ちゃんと幸せを感じる瞬間もあったのではないかと。

「自分で努力したから出来ること」って、
何にも変えがたいことなんじゃないかと思った。



私は、祖父の死から、自分の生き方が変わった。


祖父との暮らしや亡くなったことがきっかけで、自分が生きていく中で大切にしている考え方がある。


いつ死ぬかわからないし、死ぬ時に言葉を話せるかはわからない。
だから、大切な人に伝えたいことは
言葉にして、すぐに、伝えよう

話せる、歩ける、手を動かせる、ご飯を食べられる。
自分で生活できるだけで幸せなのだから、
やるべきこと、やりたいと思ったことは、すぐ行動にしていこう


そして、
できる限り偏見を持たず、ひとを簡単に判断せず、
本質を見れる人で在ろう


番組を見ていたら、祖父のことや自分の気持ちを思い出し、感情が込み上げてきて、めちゃくちゃ泣けた。


ヘラルボニーの商品を自分でも買いたくなったし、

祖父やヘラルボニーのように、

生きた証を残したいと、強く思った。


祖父の切り絵たち



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